いなたくんへ
紀元4世紀頃のヒトは黙読ができなかった。ヒトの黙読という能力は、本の発達に伴い近世になり可能になった「進化」である。ベストセラーだけど邦題は微妙なニコラス・カー著『ネット・バカ』(2010,原題は『The Shallows』)は、このようにヒトの脳が進化し続けてきた証拠を挙げ、そしていま、インターネットがヒトを白痴化しうると警鐘を鳴らす。
- 有史後もヒトの脳が進化を続けていたことの傍証(『ネット・バカ』書評1/2)(希望は天上にあり,2017/5/6)
- ネットは中世以来の心理異常を解消し、ヒトから知を奪う(『ネット・バカ』書評2/2)(希望は天上にあり,2017/5/15)
ただ私としては、ヒト個体の進化よりも、種としてのヒトの未来に興味がある。例えばヒトはサルから進化したばかりのころ、「神様を信じる」という脳機能を発達させた。この力はヒトを集団として結束させ、地上の支配者たらしめた。
WIRED創刊編集長ケヴィン・ケリーは、法律や哲学概念などもテクノロジーの一種であり、自己進化する情報システム「テクニウム」を構成すると指摘する。神様しかり、歴史しかり、あるいは法や物語もまたしかり。眼には見えないこれら共同幻想はみな、ヒトの生みだしたテクノロジーであり、ヒトの持つかけがえのない武器だった。
そしてヒトが手にした最新の共同幻想が「科学」だ。科学、すなわち再現性のある「真実」は、時代や人種を超えて人々を結束させる。例えばヒトがサルから進化したとする仮説について、私は200年前に生きたダーウィンとも、いま地球の裏側に住む多くの人々とも共感できる。
その共同幻想としての「科学」を、インターネットが失わせる。
ではその先には何があるのか。今回あらためて自分の考えを整理してみた。
Summary Note
きっかけは『ダークウェブ・アンダーグランド』書評記事
- ポスト・トゥルース時代の希望としての「フィクションの力」
「暗黒時代2.0」の先にある3つの希望
- 1.暗黒時代の次にはルネッサンスが待っている
- 2.集団分極は社会に多様性をもたらす
- 3.創造性は統合失調的症状を伴い、ネットは白昼夢を見せる
かわりに顕れる価値観は、きみの見る夢を肯定すること
今回考えるきっかけとなったのは、木澤佐登志著『ダークウェブ・アンダーグラウンド』(2019)の書評記事だ。記事の筆者はSF作家の樋口恭介氏。
『ダークウェブ・アンダーグラウンド』の概要は(樋口氏独特の視点が入っている予感がするにせよ)書評記事の次の記載が端的である。
本書は、インターネット以前から以後、つまり現在までの、インターネット・カルチャーにおける精神史として読むことができる。それは「ダーク」の精神史、闇と光の対立の歴史でもある。闇とは暗号を指し、光とは復号を指す。闇=暗号の世界とは反動と自由主義、ニューエイジ的で、ある種オカルティックな宇宙主義(反人間中心主義)の世界であり、光=復号の世界とは良識と公正主義、近代的な理性とそれによる意志決定を前提とする、人間中心主義の世界である。
『暗号化された世界で私たちにできること──『ダークウェブ・アンダーグラウンド』書評』より
そして記事では、同書の議論を次のように、「自由」「統制」「反動」の3つの流れで整理する。なんという分かりやすさ……!
『暗号化された世界で私たちにできること──『ダークウェブ・アンダーグラウンド』書評』より
これらインターネットの未来は、いや、インターネットがもたらす現実社会の変容は、私としてもクリティカルなテーマと捉えていた。ので、このあたりきちんと整理したいな、どこから手をつけたらいいのかな、と悩んでいたらこの書籍、このまとめですよ。なんというか人生のイージーモードみ感じた。ありがたや、ありがたや。
とか偉そうに言いながら『ダークウェブ・アンダーグラウンド』自体はまだ未読で、そんな状態で今回みたいな記事書くのも恐れ多くてドキドキしてるけど、まあ続ける。
書評記事によれば、2000年以後の「インターネット以後の時代」とは、「民主化し管理されたインターネットへの反動として、「ダーク」なものが回帰し過激化した時代」であり、「闇が光を、虚構が現実を、フェイクがトゥルースを書き換えつつある」時代とされる。
つまり、悲観的な時代である。
書評記事では「絶望的」と形容する。
その上で、書評記事では『ダークウェブ・アンダーグラウンド』の次の一文を引用し、「真実」が失われても「フィクション」の力は残る、という希望に触れている。
陰謀論の信奉者は、その「物語」を「真実」とみなしているという点で、彼らは文字通り「真実」を信じている。つまり、ポスト・トゥルースという言葉に反して、そこには「真実」しかない。だからむしろ問題は、人々が「フィクション」をもはや信じることができないでいることなのかもしれない。現在のインターネットは、個々が信じる「真実」で渦巻いている。そのような状況下で、「物語」を多元的な「フィクション」=可能世界に返してやることは、果たしてできるだろうか、言い換えれば、私たちは「フィクション」をもう一度本気で信じることができるだろうか。
『ダークウェブ・アンダーグラウンド』より
実際、著者の木澤佐登志氏は、『ファイト・クラブ』、『lain』、『闘争領域の拡大』、『輪るピングドラム』、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー、ヴェイパーウェイヴ、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、トマス・ピンチョンといったカルチャー群=フィクション群を引くことで本書を書き上げており、「物語」を多元的な「フィクション」=可能世界に返してやることで、可能世界の視点から、今・ここにある現実を認識し把握し、そして、「それでもまだ、可能性は残されているのだ」とささやき、今を肯定しようとしている。
要するにこの著者は、フィクションの持つ力を、本気で信じているのだ。
『暗号化された世界で私たちにできること──『ダークウェブ・アンダーグラウンド』書評』より
ちなみに余談になるけど書評記事筆者の樋口氏はSF小説『構造素子』(2017)でデビューされているところ、『構造素子』はまさに「物語」を描いた物語であったりして、フィクションに関する上記指摘は私的にはメタ的に感じたりした。
さて、以下では、樋口氏が『ダークウェブ・アンダーグラウンド』に見た希望、「フィクションの力」について、それが次の時代をどう創るのか考えてみる。
今回のこの記事は自分のための思考の整理が目的なので、過去記事リンクもバンバン張るよ。
インターネットがもたらす未来について、種としてのヒト、あるいはヒトの社会の行く末について、これまでいくつかの考察を載せてきた。改めてふり返ると、私も私なりに「希望」を意識して書いてきたので、まずこれらを回収してみる。
インターネットのエコーチャンバー効果は世界を分断し、さらには「科学」すら失わせる。いま世界をひとつにしている共同幻想としての「科学」がなくなれば、それは「暗黒時代2.0」と呼ぶにふさわしい。これは『ダークウェブ・アンダーグラウンド』と同質の悲観だ。
で、暗黒時代が来るのが正しいとして、歴史を顧みれば、暗黒時代の次にはルネッサンスが待っていた。「暗黒時代2.0」の先にもルネッサンスがあるならば、そこには2つの可能性が考えられる。
1つは、いったん失われた「科学」が再び復興する未来。
もう1つは、「科学」ではなく「次なる価値観」が明るい世界を拓く未来。
冒頭でも述べた通り、科学とは「最新の」共同幻想である。が、それが「究極の」共同幻想かはわからない。神話の時代に神が無謬だったように、王の時代には王が全能だったように、現代においては科学が究極と思われている。でも、未来においては別の共同幻想が現れることは十分あり得る。
逆に言えば、科学が失われたとしても、直ちに悲観する必要はないわけだ。では、科学の次の共同幻想とは何か。
内容は被るが、インターネットがエコーチャンバーを実現する原理として、『グーグル・アマゾン化する社会』(2006)でスケールフリー・ネットワークに触れていた。本書によれば、民主主義は本質的に集団分極化を起こしやすい性質を持つところ、ウェブがこれを加速する。
ここで少し立ち止まって考えたい。集団分極化ってそもそも悪いことなんだっけ。
近年においては、民主主義・自由主義陣営が停滞気味な一方、非民主主義陣営が躍進の兆しを見せている。ここで、ケヴィン・ケリーのいうように「社会組織もまた一種のテクノロジー」であることを鑑みるなら、社会組織の機能とは、集団が淘汰を免れるための手段であるべきだ。
組織の構成員にとっての居心地の良さは関係なく、集団が生き残れるか、淘汰されるか、正義はこの一点に裏付けられる。民主主義と非民主主義のいずれが正しいのかも、答えがわかるのは未来のことだ。
そして、生命が淘汰を免れる方法論として「多様性」の担保は基本的な戦略であるところ、集団分極化はこれを後押しするように思える。集団分極化は集団の生存戦略を考えたとき、有利に働く可能性がある。
話は少し変わって、次の時代には、具体的には2044年頃には、「当事者デザイン」の時代、あるいは「技術の時代」が到来すると予想される。ここで重要になる資質が「創造性」だ。
「創造性」の正体を考えたとき、その1つの説明として、パーソナリティ特性論の「拡散思考」が挙げられる。拡散思考とは、より遠いもの同士を結びつけられる能力で、詩人など芸術家が顕著にもつ。その一方で、拡散思考の持ち主は統合失調症的異常体験を伴いやすいことも知られる。
なお「創造性が先天的な才能である」という仮説に異論はあるかもしれないが、私はこれを信じる。なぜならパーソナリティ特性論は統計的に再現性が確かめられた「科学」であり、私は科学の信者だからだ。
もっとも、パーソナリティ特性論もいち要因には過ぎなくて、実際には後天的要因の影響も極めて大きい。その点で近年無視できないのが、インターネットの存在である。
前述の『ネット・バカ』は、インターネットが脳を白痴化させると警鐘を鳴らした。一方、ケヴィン・ケリーは別の捉え方をしていて、『<インターネット>の次に来るもの』(2016)で「白昼夢を実現する装置」と指摘している。
私がウェブをサーフィンしているのを見た人は、次々と提示されたリンクをただたどっている姿を見て、白日夢を見ているようだと思うはずだ。(中略)
多分われわれは、ウェブをうろついている間、集合的な無意識の中に入り込んでいるのだ。きっと、個々にクリックするものは違っても、このクリックが誘う夢はわれわれ全員が同じ夢を見るための方法なのだ。(中略)
私は逆に、こうした良い時間浪費は、創造性を高める前提条件だと思っている。
『<インターネット>の次に来るもの』より
インターネットとは、覚醒しながらにして夢見に至る手段である。すなわち、インターネットは統合失調的な副作用を代償として、ヒトの創造性を高めてくれる。
ここで副作用を、つまり現実を見失うことを、負と捉えるか、それとも正と捉えるのか。決断を下すのはまだ早い。
以上より、インターネットが「科学」や「真実」を失わせてしまうとして、その先の仮説として次のことを考えてみた。
- 科学が失われた世界では、次なる共同幻想が出現する
- 集団分極化は多様性をもたらす
- インターネットは現実を見失わせるが、創造性を高めてくれる
これを合わせると何が言えるだろう。
私は次のような世界を予想する。
それは、白昼夢が実現した社会だ。極めて創造性の高い世界、あらゆる知や想像が瞬時に結びついて、次なる幻想を生む世界。そこには無限の「物語(フィクション)」が広がっている。
ヒトの夢がそうであるように、この世界では「現実」はもはや意味をなさない。現実とは科学法則に縛られた世界であり、再現性が担保される「客観的な事実」である。しかし、夢の世界では主観がすべてだ。細分化されたエコーチャンバーのそれぞれで信じられる事象は、事象が信じられたという一事をもって「真実」となる。
共同幻想は、ヒトの集団が遠くへ行くための船だった。「神を信じる心」の発現はヒトに文明をもたらし、17世紀科学革命は進化を加速度的なものにした。
「科学」はいつ、共同幻想としての役割を終えるか。それは、大規模集団の統一よりも多様性が有利になるとき、集団分極の結果得られる先鋭化した創造性が淘汰に克つための武器となるとき、であるだろう。そのとき、「科学」は共同幻想としての優位性を失う。
かわりに顕れるのは、事実よりも多様性や創造性が尊重される世界、他者の見た夢を肯定する価値観だ。すなわち、白昼夢が実現した世界でヒトに求められるチカラは、他者の夢をともに見、かつ、それとは異なる自分の夢も見る能力となる。
さらに付言するなら、そのような世界においては、フィクションを信じる力ではなく、フィクションを創り出す力が重要になるかもしれない。神学や歴史や科学を学ぶ力ではなく、これらを軸にして、あるいは軸にせずして、自らの物語を生む力である。
例えばここに、エメーリャエンコ・モロゾフという詩人がいる。モロゾフは、誰でも語ればモロゾフになれるという特性を持つ。モロゾフはその人格を分断された「分人」であり、ケヴィン・ケリー著『インターネットの次にくるもの』で指摘される「アンバンドル」された存在であり、極めて高い創造性を実現ししつつも統合失調症的に振舞う量子的な人格であり、そして、誰かの夢である。
その夢は私も見ることができるし、きみも見ることができる。重要なのは、語ればモロゾフになれるが、語らなければモロゾフになれない、ということだ。
次の時代においては、共同幻想すら「民主化」される。併存する物語の世界、併存する「語り手」の世界は、科学というたった1つの真実に支配される現在よりも、希望に満ちた未来にみえる。