いなたくんへ
これは書評である。私は書評を書いており、きみは書評を読んでいる。
当然ながら、書評は書物に依存する。そのため書評は書物の反復であり、全ての書評は書物の反復である。
全ての書評は反復を免れえない。それは書評が書評であることに起因する、原理的な性質である。よって、書評である本稿もまた、先行する書物の反復であることを否定できない。
先行する書物とは、樋口恭介著『断片的な世界で断片的なまま生き延びること──鈴木健「なめらかな社会とその敵」書評』である。書評である本稿は書評の書評であり、反復の反復に他ならない。
書評『断片的な世界で~』では、鈴木健著『なめらかな社会とその敵』(2013)を題材にして、いまSNSで起きている大きな問題、いわゆるエコーチャンバー効果に触れるとともに、その出口として「分人」理論を紹介する。
エコーチャンバーの問題は、私としてもしばらく頭を悩ませていた。エコーチャンバー効果の行きつく先にはいかなる社会や未来があるのか。そこで「分人」の考え方は、斬新ながら十分にあり得る可能性に思え、備忘録として、あるいは書評の書評として、ここにそのアプローチを紹介したい。
Summary Note
1.個人(individual)はアンバンドルされ分人(dividual)になる
2.アンバンドルされた量子的詩人エメーリャエンコ・モロゾフ
3.「創造性」が鍵になる社会の「分人」
エコーチャンバー効果は、ネット上のコミュニティで起こりがちな現象を指す。自身の観測チャネルに見たいものだけを選ぶことで、特定の価値観が先鋭化され、他の価値観が見えなくなる現象である。例えば経産省が日本社会の課題をまとめた『不安な個人、立ちすくむ国家』(2017,PDF)でも、懸念のひとつとして挙げられていた。
原理的には、インターネットに代表されるスケールフリー性を持つネットワークでは「集団分極」と呼ばれる先鋭化が起こりやすく、価値観の閉鎖と過激化が醸成される。この結果、20世紀までに社会を結び付けていた共通の価値観「科学」すらも失われる、という予測すらある。
- 「ググってもカス」を生むスケールフリー・ネットワークと民主主義の未来(『グーグル・アマゾン化する社会』書評)(希望は天上にあり,2017/9/2)
- ネットが科学の知見を失わせる「暗黒時代2.0」と、その先のルネッサンス(希望は天上にあり,2017/6/27)
書評『断片的な世界で~』では、エコーチャンバー効果は個が境界を持つことに起因すると指摘する。個とは微視的的にはヒト個人であり、あるいは細胞であり、巨視的には社会組織にほかならない。社会組織も1つの「個」とみなすなら、そこには必然的に境界があり、その内なるネットワークにおいて集団分極を免れ得ない。
本書によれば、こうして一人称的な私の性質は、代謝ネットワークの中で生成され、反復的に描画される。人間は、生物としての原理上、膜を作り囲い込むことで内側と外側を作り出し、線を引くことで存在が可能となる形式をとっている。
人間の身体は細胞の集合によって成立し、脳は細胞の集合によって成立している。人間の心は、人間の認識は、線を引くことで成立し、それがゆえに、一人称がもたらす線引きのフラクタル構造は認識に基づき反復される。
『断片的な世界で断片的なまま生き延びること──鈴木健「なめらかな社会とその敵」書評』より
前述のとおり、原理的に内と外を分けてしまう人間という生物にとり、二項対立は最も認知しやすい情報の構図であり、男か女か、右翼か左翼か、東京在住か地方在住か、といったシンプルな対立の構図を前景化された情報は、負荷なく咀嚼可能であり、目に入ったその瞬間に立ち上がる感情に任せて、「いいね」や「RT」や「シェア」のボタンを押し、自らの政治的な立場を表明する──「私はあなたの友/敵です」と表明する──ことが可能となるのである。
かくしてソーシャル上での友敵の図式は──代謝ネットワークにおける細胞がそうであるように──自律的・反復的に強化され拡張される。
『断片的な世界で断片的なまま生き延びること──鈴木健「なめらかな社会とその敵」書評』より
では、エコーチャンバー効果は21世紀の必然なのか。社会は進むべくその方向に進むのか。これを崩す方法論として樋口氏が挙げるのが、『なめらかな社会とその敵』で述べられる「分人」という考え方だ。
しかしそれから8年が過ぎ、現実はそうはならなかったことを、今の私たちは知っている。現実はその逆で、SNSは一人称的主体が作る境界を色濃くし、友敵の図式を強化した。それはなぜなのか。そして、それはどのようにして乗り越えられるのか。
おそらくは、ここで必要とされるのは、既存社会においてこれまで重要視されてきた、一人称的主体の一貫性に対する信仰を払拭することなのではないか、と筆者は考える。
(中略)
本書はここに至り、哲学者ジル・ドゥルーズの議論を踏まえ、「分人」という概念を導入する。
『断片的な世界で断片的なまま生き延びること──鈴木健「なめらかな社会とその敵」書評』より
「分人(dividual)」の対立軸となるのは、近代社会が前提とする「個人(individual)」という概念である。
近代民主主義は、「一貫した思想と人格を持った個人(individual)が独立して存在している状態を、事実論としても規範論としても理想として想定している」。「主体には一貫性が求めら」れ、「少なくとも他者からはそう見なされる」。あるいは各個人がそう思い込むこと「の自意識が、人が社会を運営する前提にはある」。
しかしながら、我々が「個人(individual)」という立場で社会を運営していくのはもうちょっとそろそろしんどくない? というのが筆者の主張だ。
人間は本来矛盾に満ちた動物である。主体の一貫性とは近代社会の成立とともに構想されたフィクションであり、事後的に・強迫的に身につけられる性質である。
しかし、それは人間の生物学的な原理原則に反する規律であり、そうした無理は遅かれ早かれ破綻する。
『断片的な世界で断片的なまま生き延びること──鈴木健「なめらかな社会とその敵」書評』より
人は矛盾をかかえる動物である。人が矛盾を避けることはそもそも難しく、より一層難しくなりつつある方向へ、世界は進み続けている。そこでは、矛盾に対する社会的処理の方法が、新たな仕方で考えられなければならない。
『断片的な世界で断片的なまま生き延びること──鈴木健「なめらかな社会とその敵」書評』より
「分人(dividual)」の詳細な定義は『なめらかな社会とその敵』の議論を押さえる必要があるが、端的には、「人間は本来分割可能であ」るとの認識に基づいている。例えば情報化社会で「パスワードによってひとりが複数の異なるアクセス権を状況に従って得る」ように、個人という主体は分解しうる。
これまで個人という「仮構」を統合してきた規律社会のたがを外し、人間の矛盾を許容した新しい社会に変わるべきだ。というのが『なめらかな社会とその敵』の主張である。
所属するコミュニティによって自分の顔を使い分ける、ということ自体は、いま始まったことではないだろう。サークルや、職場や、家族や、私たちは相手によってペルソナを掛け替える。
顔の見えないネットワーク空間ではこれがさらに顕著になって、いまや1人が複数のアカウントを持ち、アカウント毎に「自分」を使い分けるのも一般的だ。
「分人」の議論で重要なのは、単に顔を変えるだけでなく、顔ごとに紐づく「責任」を独立させる点になるだろう。
あるアカウントで負う責任が、他のアカウントにも及ぶなら、アカウントの使い分けは表面的なものでしかない。いずれも近代民主主義で求められる主体の一貫性、つまりは責任の一貫性の枠内にとどまる。
しかしこれをも分解するのが「分人」だ。
この分解は人格空間方向にとどまらず、時間方向にも及ぶだろう。繰り返しの引用になるが、「人間は本来矛盾に満ちた動物である。主体の一貫性とは近代社会の成立とともに構想されたフィクションであ」る。したがって「分人」の認められる世界では、過去の自分からも独立できるべきである。
もう実名アカウントでは清廉潔白な事しか発信できない世界なんですね。もし現代の子供がトンボの羽をむしったり、カエルに爆竹仕掛けた様子をSNSに投稿したら、それが就職活動に影響する可能性すら出てきました。 https://t.co/cHdaesRYuv
— なまむし (@namamushi_japan) 2018年7月24日
WIRED創刊編集長のケヴィン・ケリーはベストセラー『インターネットの次にくるもの』(2017)で、今後起こる12の変化をまとめている。それは例えば「BECOMING(常にアップデートされ続けること)」であり、あるいは「REMIXING(二次的に生み出されること)」である。
例えば本は、固定された「本」というメディアから、常に流動し続ける「本になっていくもの」という存在に変わる。
本は紙や文章のことではなく、「本になっていく」ものだ。それは、〈なっていく〉のだ。考え、書き、調べ、編集し、書き直し、シェアし、ソーシャル化し、コグニファイし、アンバンドルし、マーケティングをし、さらにシェアして、スクリーンで読むことの一連の流れとなる ── その流れのプロセスのどこかで本が生成されるのだ。本、特に電子本は、本になっていくプロセスからできた副産物になる。
『インターネットの次にくるもの』より
このとき重要になるのが「アンバンドル」だ。本書によれば、これからはあらゆるメディアが「アンバンドル」、つまり分解される。本であれば章に分けられ、シーンに分けられ、主題は抜き出され、各登場人物は独立し、フレーズが切り取られる。こうしたアンバンドルされた要素は別の要素と再結合され、二次的な別の何かに再生産されていく。
新しい分野のメディアがまたリミックスの対象になり、アンバンドルされ再結合されて、何百もの新たなジャンルになっていくだろう。
『インターネットの次にくるもの』より
「分人」の概念は、こうしたアンバンドルが個人にも及ぶことを示唆している。そして『インターネットの次にくるもの』のアナロジーに従うなら、アンバンドル化され、分人化された個人は、次にはREMIXINGされることになる。
書評『断片的な世界で~』の筆者・樋口恭介氏は、SF小説『構造素子』(2017)の著者であるほか、エメーリャエンコ・モロゾフの訳者の一人としても知られる。
詩人モロゾフは言うまでもなく文学世界の巨人であるが、実は私たち知財の世界にもなじみの深い人物だ。特許審査官出身の著名人では、例えば発明原理TRIZを生み出したソ連のゲンリッヒ・アルトシューラーや、相対性理論を確立したスイス特許庁の元審査官アルバート・アインシュタインが有名だが、エメーリャエンコ・モロゾフもまたその1人である。
モロゾフは短い時期であるが審査官として活動し、多くのイノベーティブな発明に特許を与えた。ただし、ときに前衛的すぎる、あるいは公序良俗に抵触しうる発明にも特許を認め、特許無効率の高さが問題視され特許庁を追われた。
彼は以後文筆の道に戻るが、シーランド公国の特許制度創設にも関与したとされる点はアナーキストな彼らしい(ただしこの件は1978年クーデターにより立ち消えになったとされる)。
エメーリャエンコ・モロゾフの作品は多くの人が翻訳を進めている。例えばIE(@InsideExplorer)氏の訳した『加速する肉襦袢』では、老人ホームにおける老人と若者との対立を物語の主軸に置きつつ、資本主義に対する痛烈な風刺を行っている。
加速主義という語彙はエメーリャエンコ・モロゾフ『加速する肉襦袢』に由来すると主張する論考を読んだ。肉襦袢とは虚構の筋肉であり、演劇や映画において演技をするために作られた人工物であり、確かに『加速する肉襦袢』という作品は、虚構の筋肉を用いた演技=資本主義を徹底する話なのだと読める。
— 樋口恭介 (@rrr_kgknk) 2018年8月29日
樋口氏はこの一連のツイートで、モロゾフは「資本主義=肉襦袢が加速したあとのその先の、紙幣の単なる物質としての重さ=意味の軽さ」を看破していると指摘する。
資本主義に対する敵視とさえ言える筆致は、旧共産圏という彼の出自に起因する。と、分析するのはたやすいが、そう単純でないのが彼の魅力だ。
カナエ・ユウイチ訳『ブボリンガル』では、鉄道車両で出会わせた女性のAK-47に射殺される男と、その転生が描かれる。
ここで一貫して流れるテーマは『加速する肉襦袢』から一転し、高度に発達した資本主義社会への迎合とさえ言える礼賛である。
なおモロゾフは『ブボリンガル』で、資本主義を支えるテクノロジーに対してはアンビバレントな立場をとっている。すなわち、テクノロジーはそれが独立して存在するならば侮蔑の対象ですらあるが、ヒトの進化の延長としての存在なら許される、という人間原理的立場である。
「転生(再帰的自己生産)」と「テクノロジー」というテーマは、ケヴィン・ケリーの世界的ベストセラー『テクニウム』(2014)にも通底する。このためか樋口氏は『テクニウム』の書評記事を、『ブボリンガル』への明らかなオマージュとして整理している。
エメーリャエンコ・モロゾフは、その著作によって主義や立場が一致しない。よく言えば多彩な顔を持ち、悪く言えば一貫性を欠いた存在である。
小説家の売り物とは文体である、とは言われるが、しかしモロゾフはどうだろう。水原由紀訳『1998の熱烈な邂逅(しなさい)』(1943,原題『Endeavour-randez-vousしなさい:1998』)や、佐川恭一訳『マイトレーヤ正大師の墜落』、あるいはアシリ・ユク訳『ソポ・チエ・テイネ(ウナギ・男性器・濡れる)』、ラモーナ・ザビエル訳『第81次名刺大戦』などをみても、とうてい1人の仕事とは思えない。
モロゾフの性質は観測者により大きく変わる。まるで複数の観測者たちが、インターネットという仮想世界にエメーリャエンコ・モロゾフという存在を一から創り上げるかのように、実在としての存在を疑わせる。そんな錯覚を抱かせる。
こうしたいわば量子的な在り方は、アンバンドルされる「分人」、あるいはREMIXINGされる「分人」として、新時代の個人のあり方を象徴する。
テクノロジーのもたらす変革にこれから訪れる社会、それは「技術の時代」や「Co-Desiginの時代」など様々な予想があるが、そこでは「創造性」が重要になりそうだ。
では「創造性」を実現するものは何なのか。それは「拡散的思考」と呼ばれる思考である。これは離れた事象と事象とを結びつけ飛躍させる脳構造に起因し、同時に、精神疾患や異常体験という症状をももたらす。
「飛躍した発想」「極端な拡散性」と、同時に起こる「分裂」「統合失調」。ビッグファイブ理論を紹介した『パーソナリティを科学する』(2009)では、こうした特徴を持つ創造的人物を「詩人」と呼ぶが、この見地からもまさに、エメーリャエンコ・モロゾフは詩人である。
そして書評『断片的な世界で~』によれば、あるいは「分人」が認められる世界では、1つのパーソナリティが複数に「分裂」することは否定されない。
1つの肉体には複数の「分人」の内包が許容され、万人がモロゾフ的量子的詩人になることを認められ、あるいは複数の個人がREMIXINGにより1つの分人を創ることもあるかもしれない。
ただし忘れてはならないのが、個人の分裂と併せて、負うべき責任もまた分断されるべき点である。次なる時代において、創造的な個人はその主体の一貫性を追求「されない」。個人から派生した分人は、あるいは分人がREMIXINGされ再構成される個人は、その分人間や、元となる個人と再構成される個人との間で、その責任を共有「しない」。
【The oath 2】エメーリャエンコ・モロゾフと数多の翻訳者および読者はそれぞれ思想、知識、判断、感性、形式、内容、人格、死期、媒介、方法、理想をあまねく共有「しない」。各人は多岐にわたるモロゾフの作品群から琴線に触れたものを訳出・読解してよく、新たなあなたを創出してもしなくてもよい。
— モロゾフプロジェクト (@morozofuproject) 2018年8月28日