いなたくんへ
新しいものは、年配世代から毛嫌いされることも多い。例えばゲームも、今でこそ認知力を高める効果が注目されているものの、ひと昔前は「ゲームなんて」と親にバカにされることがあった。いまは教科書に載る大衆小説も、登場した明治のころは「低俗」と批判されたりした。
かのソクラテスも例外ではなかったようで、「文字の使用」に苦言を呈している。文字なんかに頼ったら記憶力を失くしてバカになる、という趣旨の発言だ。
「文字は人々の魂に忘れっぽさを植え付けるだろう。人々は文字に頼り、記憶力の行使をやめてしまうだろう。みずからのなかから万事を思い出すのではなく、外に記されたものから呼び起こそうとするようになるだろう」
文字に頼って知を得ている人は「多くのことを知っているように見えるが、たいていの場合は何も知らない」人になる。
『ネット・バカ』より、トート神とエジプト王タモスの出会いについてのソクラテスの語り
このエピソードを紹介する『ネット・バカ』(2010)によれば、ソクラテスの時代はちょうど「知が主に話し言葉により交換される音声文化から、文字が思考表現の主要媒体となる文字文化への移行」の時期にあった。ソクラテスでも新しい文字文化の受け容れが難かったことがわかる。
ソクラテスの指摘とは裏腹に、文字や本といった「知的テクノロジー」は我々に深く抽象的な思考を可能にし、知的な存在に変えた。脳の配線の組み換えが文字通り起こって、ヒトは進化したのだ。これは前回紹介した。
中世に起きたこの知的進化は、本書が主題とする「インターネットが脳に与える影響」の前段として説明された。かつて、文字や本は我々の脳を作り替えた。これと同じくらいインパクトのある変化を、インターネットはもたらそうとしている。それはソクラテスの警鐘を現代に呼び起こすものかもしれない。
ということで今回は、有史以来進化を続ける我々の脳がどの方向に向かうのか、本書を参考に考えてみる。ちなみに原題『The Shallows』は本書の主題を集約していて素晴らしく、なんで『ネット・バカ』みたいな訳であるのか、極めて悔しい。
Summary Note
インターネットがもたらす「心理的異常状態」の解消と、その悪影響
- インターネットは前頭前野を活性化させ「集中して深く考える」能力を奪う
- インターネットは作動記憶を増大させ、長期記憶と結合させる「理解する」プロセスを阻害する
- 理解なくしてインターネット上の知にはアクセスできない
ヒトの認知の変化がメディアのカタチも変えていく
- 書き手は、陳腐だがすぐ理解できるスタイルを優先する
- 本は断片化していく
テクノロジーは次にヒトから何を奪い、どこに進化させるか
- 歴史は逆行し、読書は知的エリートの特権になる
- テクノロジーの「鈍感化効果」が認知力を外部化させる
- 次に外部化され鈍感化されるのは「情動」かもしれない
過去に「本」が我々の心理状態を変えたことと比較し、本書はインターネットの影響を否定的に見ている。インターネットの脳への作用とはいかなるものか。
まずはポジティブな効用から。インターネットは我々の「決める力」を活性化させる。
本書によれば、Google検索経験者やネット熟達者の脳では、前頭前野の領野で大規模な活動が見られるという。前頭前野は決定や問題解決を司る領野である。
自分のネット使用時を思い浮かべれば、この結果に違和感はない。どのリンクをクリックするか、ページ内の何を読み、何を読み飛ばし、いつページに飛ぶのか。ウェブの閲覧で我々は小さな決定を繰り返している。
「決める力」が伸びるならいいじゃん!と思ってしまうとこだけど、そこには落とし穴がある。本書はこれを読書との対比で明らかにする。
読書時の脳は、言語、記憶、視覚処理に関連する領野が活発化し、ネット使用時のような前頭前野の活性化は見られないという。ここで本書が重視するのは、活性化する領野ではなく、「前頭前野が活性化しない」方の事実である。
中世の「本」の発明と読書の習慣がヒトに「心理的異常状態」をもたらした、という本書指摘は前回紹介した通りだ。ヒトも動物であるから、本来は周囲環境に注意を配るべきところ、読書は我々を文字の世界に没入させ、注意力散漫な状態を失わせる。これは動物としては異常である。が、この「相対的に中断することなく単一の作業に集中できる能力」が、ヒトに深い洞察を促した。
画像:wecometolearn
この集中状態は、前頭前野の機能が鎮められることで実現しているという。読書が脳に対して極めて低刺激な状態を作ることで、注意散漫が回避されていたわけだ。
ところがインターネットによる前頭前野活性化は、読書と正反対の作用をもたらす。中世にせっかく獲得した「集中して深く考える」能力が、インターネットに慣れることで失われてしまうのだ。これが本書の鳴らす警鐘である。
「もう『戦争と平和』が読めないんだ。そんな能力はなくしてしまった。ブログ記事でさえ、3、4段落よりも長くなると、もう集中できない。斜め読みになってしまう」
『ネット・バカ』より、ミシガン大学病理学者ブルース・フリードマンの言葉
わかるわかる。
でも「集中して深く考える」ことって、これからもまだ必要だろうか。
ネットの普及に伴い我々は「飛ばし読み(パワーブラウジング)」に慣れ、より多くの情報を処理するようになっている。知がインターネットに集積され、いつでもアクセスできるなら、我々は「決める力」の方を高めて、ネットと役割分担するのもよいだろう。しかし本書はこれに賛成しない。
記憶には2つの種類がある。体系的図式(スキーマ)をも管理する長期記憶と、短期の一時的処理を行う作動記憶である。作動記憶はいわゆるワーキングメモリにあたる。
ところで作動記憶に流入する情報は「認知的負荷」と呼ばれ、これが大きすぎると、長期記憶との関連付けができなくなる。長期記憶の中に確立している知と新しい情報とを、体系的かつ意味のある形で結び付ける、という作業は要するに「理解する」行為にほかならない。認知的負荷の増大は、長期記憶との関連付け、すなわち「理解」を難しくする。
認知的負荷の原因となるのが「問題解決の外在化」と「注意の分散」であるところ、これはインターネットの中心的特徴だ。インターネットは膨大な認知的負荷を発生させ、深い理解を妨げる。本書曰く「インターネットはクロスワードパズルを解きながら読書するようなもの」だという。
「理解」ができなくなると、何が起こるか。
コンピュータの場合には、データをクラウドに置いて、クライアント側はデータを持たずに必要な時だけアクセスする、ということが成り立つ。ここで「クラウド」を「インターネット」に、「クライアント」を我々の「アタマ」に置き換えると、どんな問題が起こるだろう。
脳をコンピュータに見立てるメタファーは近年よくみかけるが、本書は「記憶をウェブに「アウトソーシング」することを賞賛している人々は、メタファーに惑わされて」おり、「生物学的メモリーが持つ基本的に有機的な性質を彼らは見落としている」と指摘する。
本書によれば、長期記憶の形成とは、大脳皮質におけるたんぱく質と細胞の構造的変化により促され、解剖学的変化を伴い、定着に数日を要する。脳、すなわち生物学的メモリはコンピュータのそれと違って、ハード的に組み変わり、常に全体の接続関係が更新される、動的・不可逆的なものなのだ。
脳内の接続は「あるメモリーへのアクセスを提供すると言うだけではない。さまざまな意味で、メモリーを構築しているのです」
『ネット・バカ』より、アリ・シュルマンの言葉
「接続こそが思考である」
『ネット・バカ』より、ウィリアム・ジェイムズの言葉
新たな情報と長期記憶との関連付け、すなわち「理解」は、脳の構造を変化させるだけの時間が必要であり、これを実現するのが「集中して深く考える」精神状態である。集中して深く考え、理解することができないならば、ネット上にいかに知があろうとも、その情報を脳に落とすことはできない。
理解なくして「知はネットに、決定はアタマで」という役割分担は成り立たないのだ。
まあ、考えてみれば簡単な話だよね。世界史でも量子論でも、あるいは好きな小説の背景設定でも何でもいいけど、一度きちんと勉強して理解すれば、その後はすぐに頭に入る。でも理解する前だと、ちょっとウェブをナナメ読みしただけでは何のことだかわからない。
一度自分の「モノ」にする時間が必要で、これが「集中して深く考える」ということで、でもインターネットはこれを阻害するので、我々の理解が浅くなる。
我々は浅い理解のままなのに、つまり本当の意味ではアクセスできていないのに、「知はネットにあるから大丈夫」と錯覚して、そして知を失っていく。これが本書の鳴らす警鐘である。
「みずからのなかから万事を思い出すのではなく、外に記されたものから呼び起こそうとするようにな」り、「多くのことを知っているように見えるが、たいていの場合は何も知らない」というソクラテスの予言は、まさにインターネットを言い当てている。本書は次のように評価している。
書くもののもたらす効果について、ソクラテスの考えは誤っていたかもしれないが、記憶という宝を当然視してはならないという彼の警告は賢明なものであった。精神に「忘れっぽさを植え付け」、「記憶の秘訣ではなく、想起させるもの」となる道具を彼が予言したことは、ウェブの到来によって新たな通貨価値を得ている。この予言は早すぎただけなのであって、間違ってはいなかったと言えるかもしれない。
『ネット・バカ』より
インターネットが変えようとしているのは、我々人間だけではない。
文字や本がヒトの進化を促し、進化したヒトがさらに道具の在り方を変えたように、「集中して深く考える」力を奪われた我々に対して、メディアも変化が起きている。
文字を使い書くことで、ヒトは抽象的思考が自分の外に置いて、客観的で複雑な思索が可能になった。本書はもう少し述べていて、読者を意識することも書き手を育てたとしている。
知的かつ感情的に深く没入する熱心な読者が「やがて現れて、自分たちに感謝してくれるだろう」と想定できたからこそ、作家は社会的な言葉の限界を素早く飛び越え、その多くが本のページ上でしか存在できないような、きわめて文学的な形式の豊かさを探求しはじめた。
『ネット・バカ』より
そう、書き手は読み手を意識する。
これは昨今のネットメディアを見れば明らかだ。ネット上の記事は年々短くなり、PVを主眼としたキャッチーな見出しと薄い中身に変わっていった。本書曰く、今後は「作家は文学的妙技や実験を控え、陳腐ではあるけれどもすぐに理解できるスタイルを優先せざるを得なくなる」。
メディアの劣化を嘆く声も聞こえるが、仮にメディアの質が落ちているとすれば、それは読者の質の低下を反映してるだけかもしれない。
ただ私としては、従来のような読書型の読み手がみなインターネット型のナナメ読み読者に駆逐された、というよりは、母数が増えたものと受け止めている。インターネットはコンテンツに触れる機会を爆発的に増やした。だからナナメ読み型読者も増えたけど、従来型の読者もきちんと残っていて、増えた母数に対して目立たなくなっただけではないか。
というわけで、「文学的妙技や実験」を続ける従来型の書き手も、これからも残っていくと信じたい。
図書館がインターネットに置き換えられる、という話は前回したが、道具という意味では「本」も失われていくだろう。現在本は電子書籍の形でデジタル化が進んでいるが、次に起こる変化は、本書によれば「断片化」である。
「いったんデジタル化されると、本はページ単位、あるいはさらに1ページの断片にまでバラバラにされる。これらの断片はリミックスされ、別の本として作り変えられ」たのち、「ネットという共有地で、出版され交換されるのだ」
『ネット・バカ』より、ケヴィン・ケリーの言葉
グーグル社が大急ぎで築き上げつつある巨大図書館を、われわれの知っている図書館と混同してはならない。そこには本ではなく、スニペットが所蔵されているのだ。
『ネット・バカ』より
スニペット(snippet)は「切れ端」「断片」を指す。すでに述べた通り、インターネットは読者を「浅い理解」しかできない存在に変え、飛ばし読み(パワーブラウジング)を得意にさせる。本が断片化するという現象は、この読者の認知の変化にも符合している。
ただし引用されたケヴィン・ケリーは断片化だけでなく、その後の再編集の可能性にも触れていた。二次創作の自由度が確保されれば、新しい文化の広がりもあるかもしれない。
ポストヒューマンという仮説がある。バイオテクノロジーが我々ヒトをより高次な存在「ポストヒューマン」に進化させる、という仮説だ。実際に脳の仕組みの解明を目指す大規模プロジェクトが各国で進められている。
一方で本書『ネット・バカ』は、肉体の工学的改良に拠らずとも、1世代や1世紀といった比較的短い時間で我々の脳が進化すること、現在またインターネットの影響を受け進化しようとしていることを明らかにした。我々ヒトは、その先どこに進んでいくのか。
インターネットにより理解力が損なわれると、「深い読みの習慣」が衰退する。本書はその結果として、読書が「少数の知的エリートの領分となる」と予想する。
そもそも、周囲に注意を配れず本に没入したしまう状態は、生物学的には「心理的異常状態」だとされる。これが本来の状態に戻るのだ。
「大衆的な読書の時代」が我々の精神史において短期間だけ生じた「例外」となる。
『ネット・バカ』より、ノースウェスタン大学教授クループの言葉
古代、識字は特殊能力であり、「読める脳」を持つ、一部の知的エリートのものだった。歴史はその時代に遡る。
本書はテクノロジーの「鈍感化効果」を説明していた。例えば時計。我々は時計を持つ以前には、「いつ食事し、働き、眠り、起きるかを決めるにあたり、我々は自分の感覚に耳を澄ませ」ていた。ところが時計が発明されると、人は時間を知るにあたって機械に依存し、自然な時間感覚はむしろ鈍感化した。
本書はメディア学者ジョン・カルキンの言葉「われわれは道具を作る。そしてそののち、道具がわれわれを作る」を引用の上、次のように指摘している。
「われわれはコンピュータをプログラムする。そしてそののち、コンピュータがわれわれをプログラムする」
『ネット・バカ』より
今回紹介した通り、インターネットは我々から「深い理解」の力を奪い、鈍感化させる。人工知能をはじめとする次世代の知的テクノロジーは、ますます我々の認知能力を外部化させ、生物個体としては損わせていくだろう。
高度に知的化された環境がむしろ人間の意識を退化させる、という未来は、ユートピア「アガスティア・リゾート」を舞台としたディストピア小説『ユートロニカのこちら側』(2015)でも描かれていた。この作品では、センサネットワークと犯罪予測が実現した実験社会の内外において、複数の主人公がそれぞれの視点で、住人に起こる変化を探ってく。
もちろん、衣服が我々から体毛を奪ったように、ヒトは道具と合わせて考えられる存在だ。ただし衣服と違うのは、現在起きている変化がこれまでのような身体能力の外部化ではなく、脳の中身、認知能力の外部化であることだ。本書が指摘するように、インターネットが「深い理解」を失わせ、外部化したはずの知にアクセスできなくなってしまうなら、それはもはや外部化でなく、能力の揮発というべきだろう。
ちなみに、認知能力が鈍感化したとして、その次に失われる力はなんだろう。
人工知能の課題の1つに感情の再現がある。感情を使ったコミュニケーションは、未だ人工知能には置き換えられないとされる領域だ。とすれば人工知能の次のイノベーションは「情動」を外部化するものかもしれない。すると、未来においては人間は情動までも鈍感化してしまうだろう。
例えば田舎が都市化され、人と人とのコミュニケーションが変化したことを鑑みれば、起こり得る変化に思える。
以上、インターネットが我々の脳にいかなる影響を及ぼし、どう変えようとしているのか、本書から紹介した。道具がここまで脳の認知を作り替える様子を見ると、インターネット以前を生きた経験も持てて嬉しいなと思ったり。「以後」の人々は「以前」の世界を知ることは永遠にできなくて、旧世代の認知も知りえない。
そしてインターネットは「印刷」並みのインパクトをもたらす変化だ。印刷の前後の時代を生きて比べる、というのは贅沢な気持ちになってしまう。
とはいえ感想としては「ちゃんと本も読もう!」に尽きるんだけど。