いなたくんへ
クリエイティブ、いいよね。
ゲームクリエイターとか、漫画家とか、アーティストとか、新しいとこではYoutuberとか。将来なりたい仕事ランキングの上位に必ず入るのが、クリエイティブな仕事、創造的な仕事である。
かくいう私もクリエイティブな仕事にはあこがれ続けて、創造性とか欲しくて欲しくてたまらないけど、ところで「創造性」ってなんだろう。実は結構ふわっとしてる。
ということで「創造性」の正体についてしばらく調べてみて、その答えがある程度見えてきたのでまとめてみた。創造性を実現するもの。それはズバリ「拡散的思考」である。しかしながらこの「拡散的思考」は、脳にハードウェア実装された機能、つまり先天的なものなのかもしれない。
そしてさらに調べていくと、拡散思考には副作用とも言うべき弊害があった。それは精神疾患や、これに似た異常症状に陥りやすいということだ。それはいったいなぜなのか。
以下に仮説を述べてみる。
Summary Note
抗鬱剤はなぜ創造性を失わせるのか
パーソナリティ特性理論に目を向けてみる
芸術家の4つの特徴と「異常体験」
創造性を高めることはできるのか
きっかけはある作家さんのツイートだ。鬱病というセンシティブな内容なので直接の引用は避けるが、次の趣旨のことを述べられていた。
- 以前は、自分の頭からは、おもちゃ箱のように無限にアイディアが湧き出てきた
- しかし薬を服用すると、空想したりアイディアが沸くことはなくなってしまった
- ただ見える範囲の現実が横たわるだけになってしまった
- 視界はクリアで色鮮やかだが、現実に固定されてしまって、脳の奥に広がっていた色彩豊かな空想の世界は消えてしまった
この一連のつぶやきには他の作家さんも同意していて、例えば「以前は物語のプロットが頭で自動生成されていたのに、鬱病の薬を飲んだことでイメージが全く湧かなくなった」という。
これらが正しいなら、抗鬱剤と創造性との間には何かの関係があることになる。
ひとつ思い当たるのが、脳に存在するファクトチェックの機能である。
脳の前頭野のある部位、眼窩前前頭皮質は、ファクトチェック機能を担っている。これは、自分が体験した事象が正しいかどうかを客観的に判断する機能である。
ファクトチェック機能が損なわれると、強迫性観念や双極性障害、統合失調症に陥る。一体なにが真実で何が虚構であるのか、なにが事実で何が妄想か、区別がつかなくなるわけだ。ジャンヌ・ダルク等の歴史上の予言者や偉人も統合失調症だった可能性が指摘されている。
ちなみに夜寝ていて夢を見ている状態では、このファクトチェックの機能はOFFになる。夢が荒唐無稽で現実離れしているのはそのためだ。
このファクトチェック機能の強さが人によって違うのでは、というのが私の仮説である。
例えばファクトチェック機能が極めて強い人は、冷静で客観的だが空想能力には欠ける。要するに頭がカタい。
一方で空想や発想に長ける人は、おそらくファクトチェック機能がユルい。ユルいがために現実から飛躍した発想ができ、虚構の世界を受け入れられる。
ところがこれがユルくなりすぎると現実と虚構の区別がつきにくくなり、そしてある閾値を超えたとき、実際に統合失調症や鬱といった精神障害の発症に至ってしまう。
もしかしたら創造性は、このような危ういバランスの上に成り立っている。
空想に長ける人はファクトチェック機能がユルい。この仮説を裏付けるものに偶然出会えたので紹介したい。
ダニエル・ネトル著『パーソナリティを科学する』(2009)は、ビッグファイブと呼ばれるパーソナリティ特性を論じた一冊である。
パーソナリティ特性とは、人間の個性を決める因子を具体的に特定したもので、性格診断をイメージするとわかりやすい。ただし占いとは異なり、被験者への質問と評定の相関関係に基づく科学的裏付けがなされている。
本書はパーソナリティ特性の定義を「特定タイプの状況に反応すべくデザインされた心のメカニズムの、反応性における安定した個体差」と表現する。
我々の行動は、その人の置かれた状況への反応として予想できる。たとえば「危険」という状況に置かれたとき、我々の情動システムは我々に「恐怖」を感じさせ、我々に「逃げる」という行動をとらせるわけだ。
しかしながら我々の人生は、そうした「強い状況」のみから成るわけではない。我々の人生は、それよりも圧倒的に「弱い状況」から構成される。そうした「弱い状況」での反応の差、閾値の差こそが個性であり、パーソナリティ特性であるとする。
たとえば、知らない土地を夜歩いているときなど、潜在的に危険を示すキューを感じるかもしれない――薄暗い狭い路地とか、見知らぬ大男がうろついているとか。そうした状況は実際に危険かもしれないし、危険でないかもしれない。どうやってわかるのか。ここで、個人差の効果が出てくる。もし不安メカニズムが活性化するための閾値がやや低ければ、そのシーンはそのメカニズムが活性化するのに十分なキューを含んでいる。
ビッグファイブ理論では、こうした反応の差を決める基本的な因子として「外向性」「神経質傾向」「誠実性」「調和性」「開放性」の5つ(それ以上でもそれ以下でもない)があると予想する。これら5つの因子は、我々ヒトが進化の淘汰圧の中で獲得した特性である。
ビッグファイブについてもう少し説明したい。たとえば「外向性」という因子がある。これは「ポジティブな情動の反応にみられる個体差」と説明される。
ポジティブな情動とはどんな機能か。これは、ステイタスや物的資源、配偶者など、資源の獲得を促すものであるらしい。
ポジティブな情動は、何らかの好ましい資源を追及したり、獲得したりするのに応じて活性化する。我々に望むものを追及させ、資源を手に入れることの予期に興奮をさせ、手に入れた後には喜びをもたらす。
本書によれば、外向性スコアの高い人はポジティブな情動に反応しやすい。つまり資源を求めたいとの欲求に素直であり、セックスと恋愛を楽しみ、野心を持ち、ステイタスを手に入れることや社会の注目を集めることに喜びを見出し、そのために猛烈に働く。
ちなみに外向性スコアの低い人、つまり内向的な人はネガティブかというとそんなことはなくて、「セックスやパーティやステータスにも惹きつけられるが、そこから得られる快感が比較的わずかなため、敢えてそれを手に入れるために頑張ろうとはしないだけ」であるとする。
外向性の高さは資源の獲得、ひいては社会的成功につながる。では外向性は高い方がいいかというと、そう単純ではないようだ。
外向性が高いことは、肉体を危険にさらしやすかったり、家庭が不安定に陥るというリスクをもたらす。外向性が低ければ「インセンティブに対して慎重なアプローチを示す」ため、こうしたリスクを持たずにすむが、外向性が高い場合には、資源獲得のトレードオフとして生命のリスクを負うわけだ。
リスク選好型の個性と安定型の個性とが併存することは、ヒトの集団に多様性をもたらす。
現在では「外向性」はDRD4(ドーパミンD4受容体)と呼ばれる遺伝子に起因することが知られているが、このDRD4は定住型社会よりも遊牧型社会の方が優勢になるようだ。外部環境の淘汰圧が個性(=反応性の違い)に影響し、集団を環境に適したバランスにする。
こうした利益とコストの関係は5つの因子すべてに存在する。
どの次元においても、だんだん高くなっていくスコアには、利益とともにコストがあると考えていいだろう。これらのコストと利益は、それぞれの次元の進化の歴史を作り上げてきた。だが同時にそれは、現代の人間が人生を切り抜けていくうえで直面することになる利益であり、コストなのだ。
本題に戻ろう。ビッグファイブの5つの因子には、創造性を説明するものがある。「開放性」という因子である。
本書では「開放性」の特徴を次のように説明している。
- あらゆる種類の文化的・芸術的活動にどれほど関わるかを強く予想する
- 境界のゆるい連想/異常体験の特徴群である
- 詩人・芸術家の4つの特徴が開放性の中核をなす
「開放性」は創造性の指標になるだけあって、詩人や芸術家のスコアが高い。というよりも、いかに詩人的、芸術家的であるかを予想するのが「開放性」だ。
では、詩人・芸術家とはいったいどんな人たちだろう。本書は4つの特徴を挙げる。
- 1.深く隠喩的
- 2.社会的規範への挑戦
- 3.強い霊的感覚
- 4.精神病
最初の特徴「深く隠喩的」は、幅く広く連想できる思考特性を指す。優れた詩人、作家の比喩のすばらしさは説明するまでもないだろう。まさに芸術家を芸術家足らしめる特徴であり、これは「拡散的思考」とも呼ばれる。
ひとつの意味領域(心の状態とプロセス)からのアイテムは、全く異なる領域からのアイテムと自由に交流し、際立って異常な効果を作り出す。それはまるで、さまざまな認知領域を取り巻くフィルターなり薄膜なりが普通よりも少し浸透しやすくできていて、そのために連想がより大きく広くなっているかのようである。
一方で、目を引く特徴は後ろの2つ、「強い霊的感覚」「精神病」である。本書によれば、開放性スコアの高い人は、統合失調症の患者、特に異常体験グループと呼ばれる人々と強い相関を持つという。ここで「異常体験」とは、幻覚、疑似幻覚、知覚の乱れ、神秘的な考え方を指す。
本書はこれを「拡散的思考」の副作用であると考える。
概念や知覚された対象がいずれも、広範な連想ラフトを活性化するのだとすれば、なぜ異常な信念が生まれるのかも理解できる。実際には「考え」であるものを聴覚と結びつけることによって、幻聴が生まれる。意味のない出来事が、そこにいない人物についての考えと結びつけば、テレパシー、もしくは超常現象という考えにたどりつく。
要するに、開放性が低ければ別個のものとして保たれているはずの異なる領域と処理の流れが、ここではついには相互作用しあい、関連されたものとして知覚されるのだ。
これらの特徴から、本書は「開放性」の利益とコストを次のように結論付ける。
もし開放性の増加が芸術家としての名声の可能性を増すのに有利だとすれば、同時にそれは精神疾患に似た障害になりやすいというコストも伴うのである。
オハイオ州立大学リズ・サンダース准教授は、デザイン手法の未来のあり方として「Co-Design」を提唱する。ユーザに寄り添うデザイン手法「デザイン思考」がひと昔前に流行ったが、これがさらに進んで、ユーザ自身(by people)によりデザインがなされるという予想である。
専修大学上平教授はこれを「当事者デザイン」と呼び、そのような時代に人々は「創造する生活者」になると予想している。
FROM DESIGNING TO CO-DESIGNING TO COLLECTIVE DREAMING: THREE SLICES IN TIMEより
あるいは坂本健三著『先端技術のゆくえ』(1987)では、宗教の時代・国家の時代・経済の時代に続く次なる時代として「技術の時代」が提唱される。その時代の競争の源となるのは「創造力」だ。
これら仮説が正しければ、次なる時代には「創造性」が重要になる。このあたりのシナリオは知財制度にも絡めて以前紹介した。
しかし、実際に「創造性」が重要な時代が来るとして、我々は創造的になれるのだろうか。
ビッグファイブ理論が教えてくれた残念なお知らせは、「創造性が才能である」という言説がどうやら正しそうだということである。
創造性を高める方法としてよく言われるのは組み合わせの重要性だ。古くはベストセラー『アイディアの作り方』(1940)など、新しいアイディアが既存のアイディアの組み合わせに他ならないことは、古今東西指摘される。
したがって創造的になるためには、組み合わせの基礎となる知識を幅広く持つことが良い。あるいは例えばリバース・イノベーションのように「場」を変えるなど、異なる世界の人々と交わることも推奨される。
これらのアプローチは「拡散的思考」の考え方にも即している。少なくとも私はこれを信じて、これまでたくさんの本を読み、多くの経験をするべく努めてきた。
しかしビッグファイブ理論に従えば、こうした努力は「拡散的思考」の処理プロセスを模倣するものでこそあれ、あくまで凡人のためのそれである。
真に創造性のある人は、最初から脳が組み合わせに適したカタチにできている。「さまざまな認知領域を取り巻くフィルターなり薄膜なりが普通よりも少し浸透しやすくできていて」、様々な知識・知覚が勝手に混じり合い、まさに夢見のように、斬新なアイディアが生み出される。まさに呼吸をするようにして、見るものすべてが空想になる。
つまり創造性は、先天的な能力である。
ちなみに『パーソナリティを科学する』によれば、「開放性」は「外向性」とともに加齢とともに低下する。これら2つの特性はその人に資源を獲得させようとする、つまり成功させようとする因子であるところ、それが必要なのは若いときであるからだ。
配偶者や子供ができる年齢になると、資源の獲得よりも社会との接続がより重要になるため、かわりに「誠実性」や「調和性」が高まっていく。
つまり「創造的な仕事で成功できるのは若いときだけ」「歳をとると頭が固くなる」という経験論は、ビッグファイブ理論からも裏付けられる。
創造性が先天的なものだとして、それでも後天的にこの力を手に入れることはできないか。
ところで脳のの側頭葉には「宗教的なもの」「神秘的なもの」を信じる部位がある。神を信じる機能は、ヒトが集団としてまとまるうえで有利なために、淘汰の過程で獲得された。ここで心理学者マイケル・パーシンガーは、当該部位に磁場をかけて活性化することで、神秘的なものを信じやすくできるとする。
経頭蓋磁気刺激・電気刺激法など、脳に電流や磁場をかけて集中力を増すことは米国では(一部で)普及が始まっており、突飛な話では決してない。
創造性を獲得しようとするならば、つまり脳の構造を作り変えようとするならば、こうした電磁気的方法で脳のファクトチェック機能をユルめる、というのはひとつの手段かもしれない。
ちなみにこれを電磁気的方法でなく化学的方法でやろうとするのが大麻や覚醒剤なのだろう。音楽家とかが創造性を求めて薬物に手を出すことあるけど、アプローチとしては間違っていないことになる。
あるいは、非侵襲的に、かつ合法的に脳の構造を変えたいならば「瞑想」とかも。
だがちょっと待ってほしい。脳構造を無理やり変えなくても「拡散的思考」を実現する方法はあるかもしれない。インターネットだ。
インターネットが革命的とされるのは、それが「組み合わせ」を従来と異なる次元で実現したからだ。それまでは出会うことのなかった小さなシーズと小さなニーズが、ネットを介して結びつく。これがもたらす価値はまさに革命と呼ぶにふさわしく、『オープンサイエンス革命』(2013)では17世紀科学革命に次ぐ「第2の革命」と指摘する。
これまで天才の頭の中でだけ実現した組み合わせも、インターネットを使うことでそのハードルが大きく下がる。このことこそ、21世紀に世界の創造性を増すということ、技術の時代が訪れるということに他ならない。
あるいはインターネットは、実際に我々の脳構造を作り変えているかもしれない。邦題は微妙なニコラス・カー著『ネット・バカ』(原題『The Shallows』,2010)では、ネットサーフィンがいかに人から集中力を奪い、そうなるべく脳の作り変えてしまっているかを論じている。
ネットサーフィンによる白痴化は憂うるべき現象であるのだが、一方でこれを肯定的に捉える向きもある。WIRED創刊編集長のケヴィン・ケリーだ。彼は『インターネットの次にくるもの』(2016)でネットサーフィンを「白昼夢」になぞらえ、それが創造性を高める前提条件だと指摘する。
夢が何のためにあるのかは分かっていないが、唯一言えるのは意識の根源的な欲求を満たしているということだ。私がウェブをサーフィンしているのを見た人は、次々と提示されたリンクをただたどっている姿を見て、白日夢を見ているようだと思うはずだ。
最近私はウェブの中で、人々に混ざって裸足の男が土を食べているのを取り囲んで見ていたり、歌っている少年の顔が溶け出すのを見たり、サンタクロースがクリスマスツリーを燃やしたり、世界で最も高所にある泥の家の中を漂っていたり、ケルトの結び目文字が自然に解けたり、ある男から透明なガラスの作り方の講釈を受けたり、その次には自分自身を眺めていて、それは高校時代のことで、自転車に乗っているという具合だった。
しかもそれは、私がある朝に数分間ウェブをサーフィンしていた間に見た話だ。どこに行くのかも分からないリンクをたどってトランス状態に陥るのは、大変な時間の無駄をして ── あるいは夢を見て ── いるように思えるかもしれないが、とても生産的な時間の無駄遣いなのかもしれない。
多分われわれは、ウェブをうろついている間、集合的な無意識の中に入り込んでいるのだ。きっと、個々にクリックするものは違っても、このクリックが誘う夢はわれわれ全員が同じ夢を見るための方法なのだ。
(中略)
私は逆に、こうした良い時間浪費は、創造性を高める前提条件だと思っている。
睡眠時の夢見の状態においては脳のファクトチェックの機能がオフになる、ということはすでに述べた。しかし『インターネットの次にくるもの』のメタファーによれば、我々は覚醒しながらにして夢見に至る手段を手に入れていることになる。
ちなみに「夢」を脳科学研究の観点から検証する『なぜ脳は、ヘンな夢を見るのか? 』(2010)によれば、クリエイティブな活動を好む人ほど夢の内容を覚えているという。その理由として「彼らは常に新しいアイディアを求めているから」と説明する。
ファクトチェック機能が生理的にオフになる夢見の状態はまさに拡散的思考の確変状態であり、これを利用するというのはなるほど理にかなっている。
現代の我々はこうした夢の利用を、インターネットという工学的手段で実現できたということだ。
以上、調べたことをまとめてみる。
創造性を実現する要因として「拡散的思考」があり、しかしその代償として、精神疾患や異常体験といった弊害が伴うことを紹介した。この利益とリスクの間には、どうやら脳のファクトチェック機能のユルさが関係していそうである。
この「ファクトチェック機能がユルい状態」になるためにはどうすればいいのか。日々創造的に努めるということのほか、電磁気的手法や化学的手法、あるいは瞑想などにより、脳構造を作りかえるアプローチがありそうだ。
その一方で、ファクトチェック機能がオフになる夢見の状態の利用も有望なアプローチのひとつとなる。そしてインターネットは我々に白昼夢を見せる装置であり、すでに「拡散的思考」のツールとして機能していて、これが「創造性」が鍵になる「Co-Design」の時代、「技術の時代」を実現する可能性もある。
インターネットは膨大な情報をもたらしてくれる。私たちはそうした情報の渦に抗わずに飛び込んで、夢を見るように日々を過ごす。それでいいのだ。