新興宗教こそが未来を拓く3つの理由

いなたくんへ

学生のころ、学校の近くに比較的大きめの新興宗教の施設があった。実はその3代目教祖が我が母校のOBで、先生が私たちにつぶやいたのをよく覚えている。

「企業に就職するのもいいけど、あそこで教祖まで登ったあいつが一番の勝ち組だよなあ」

教祖が実際にどこまで勝ち組なのかは置くとしても、自ら宗教を興すというのは確かに魅力的な行為だ。君もそう思うだろう?

さて、とはいえ新興宗教とは無縁に過ごしてきた私だが、最近ついに縁が結ばれた。地方のある新興宗教団体より招待を受け、神殿の見学や、幹部や教祖からレクチャーを受ける機会が得られたのだ。それは非常に貴重な体験であったとともに、新興宗教のコミュニティ・デザインの持つ既視感に感化される部分が多かったので、ここに学びを整理する。

結論から言えば、私たちは新たな宗教を興さねばならない。
もし、未来を創りたいなら。

Summary Note

1.私がみた新興宗教団体の構造

  • 未完成の新規宗教理論と権威付け
  • 探求者としての教祖
  • 「わかる人しかわからない」と言うコア信者

2.あれれ、これって製品開発も同じじゃない??

3.代謝し、恒常性を保つ「場」が、物語を創るということ

4.新興宗教こそが未来を拓く3つの理由

  • (1)Co-Designの時代にそぐう
  • (2)いま、科学とは別の物語が求められている
  • (3)理想社会は、社会の周縁からの破壊によりもたらされる


1.私がみた新興宗教団体の構造

新興宗教団体の仕組みについて、次のモデルに基づき説明したい。これは私の体験に基づくn=1のモデルに過ぎず、他の宗教団体にまで直ちに一般化できるものではないが、まあ見てほしい。


私がみた新興宗教団体のモデル

この新興宗教団体は、次のような特徴を備えていた。

新規宗教理論

特定を避けるため詳細までは言わないが、その宗教団体は独自の宗教理論を掲げていた。曰く、ある物理現象に対してある科学的処理を施すことで、霊的現象の発現や悪性事象の除去が可能になるということである。

当該工学分野について大学時代にかじった程度の私の知識では、その動作原理や、特になぜその装置が電源無しでも動作できるのかなどは理解できなかったが(土に埋めて使ってもよいとのことだった)、とにかく新規理論であることは間違いなかった。

その新規理論は、2つの方向性から権威付けがされていた。1つは科学(と言っても私には科学的正しさがわからなかったが)。もう1つは「歴史」で、当該宗教の黎明期に天皇家の末裔が教祖に秘術を授けたことや、伝統仏教の流れを汲むなどの謂れがあるとのことだった。

重要なのは、その理論は新説であるがゆえにまだ未完成であり、真理の深みを探求する発展段階にあった点である。

探求者としての教祖

当該宗教を若き日に開眼された教祖も、私がお会いしたその時点ではずいぶんお歳を召されていた。しかし、その宗教理論を滔々と語るその眼は澄み、あらゆる角度から真理のさらに深みを目指そうと試行錯誤するその姿勢は、魅力的であった。

資格試験とか、大きな夢とか、なんでもいいんだけどさ、目標を目指してひたむきに頑張る姿って美しいし、応援したくなってくるよね。数十年にわたる飽くなき探求を重ねる教祖はその結晶のような存在に見え、わずかな時間にもかかわらず、なんというか畏敬に近い念を抱かざるを得なかった。

コア信者(幹部信者)たち

神殿などの施設を紹介し、教祖とともに彼らの宗教について説明してくれたのが、コア信者たち、いわゆる教団幹部である。

彼らの役割は、いわば哲学者である教祖を支え、教団の実体的な運用を行うことのようだった。彼らは、教祖が探求する真理の哲学的探索を分担し、理論を平易な協議に落とし込み、科学的実験や、科学理論に基づく様々な礼拝グッズの製造、そして販売を行う。

彼らは教祖を信奉するが、信奉というよりは良き理解者のようでもあり、ゆえに、教祖も彼ら幹部を兄弟のように信頼していた。

ちなみに彼らの作る礼拝グッズは、見た目こそプラスチックと簡単な電子部品の組み合わせにみえたが、購入価格はいずれも数十万円の高級品であり、しかもかなりの数が売れているらしかった(その証拠も見せてもらった)。


私がみた新興宗教団体のモデル(再掲)

そして彼らは言った。

「わかる人にしかわからない」
「わからない人は、どうせいつまで経ってもわからない」

この語り口は暗に一般人(非信者)を批判し、批判することをもって信者に対して「自分たちはわかる側の人間だ」「自分たちは教祖様に近い側の人間だ」という自信を持たせる。信者たちは自分が「わかる人間」であることを誇りに感じ、日々の礼拝に励むのである。

なぜ、私にそれがわかるのか?
ちょうど仕事で似た場面を見ていたからだ。


2.あれれ、これって製品開発も同じじゃない??

私は弁理士という職業柄さまざまな発明者と付き合うが、稀ではあるがその中に、激しい情熱に燃えるカリスマ的なリーダーがいる。新興宗教から一度離れて、次に彼の話をしたい。

詳しくは後述するが、彼はイノベーターである。ここに、彼を取り巻く環境のモデルを示す。


革新的プロダクト・サービスのモデル

このモデルは次のような特徴を持つ。

哲学にまで昇華されたビジョン

彼は世の中を大きく変えるあるビジョンを描いている。ただ、技術的なハードルの大きさもさることながら、新規事業あるあるで、技術の力だけでは超えられない壁もたくさんあって、彼の試行錯誤は止むことはない。それでも彼は十年以上の時間をそのビジョンに賭けている。

そのテクノロジーの概念自体は知られたもので、SF作品にはよく登場するし、実現すれば必ず世界を変えるだろう。が、彼と話すことで気付かされるのは、そのビジョンがあくまで彼独自の、唯一無二の世界観である点だ。

彼は彼の中で昇華させたある哲学を持っていて、テクノロジーはあくまでひとつの表現手段に過ぎない。彼が絶対に譲ることのできない美学、彼特有の「世界観」がそこにはあって、彼はその具現のためにその人生を生きている。それは、バズワードとしてのテクノロジーとは似て非なる世界である。

彼は優秀なエンジニアである一方で、その思想を表現するには工学の言葉だけでは足りないらしい。仏教やら古事記やらの概念までも参酌しつつ、なんとか自身の哲学を言語化しようと試みる。

そのため、彼の会話は大体において胡散臭くもあるのだけれど、数々の特許や、実際の実験結果などによって、それが単なる空想でなく、物理的に表現可能な何かであると裏付けている。

探求者としてのイノベーター

と、すでにここまででも書いちゃったけど、彼は求道者であり、自らの哲学を追い求め、そのひたむきな姿がどうしようもなく周囲の人を惹きつける。彼と出会ったエンジニアはみな彼のために働き、組織を超えて多様な人々がその夢の実現のために協力をする。

イノベーションはまだ起きていないけど、私は現在が彼の興すイノベーションの前夜であると確信していて、だから彼はイノベーターだ。

アーリーアダプタたち

まだ製品化されていないので、彼の事例において「アーリーアダプタ」という言葉を使うのは適さないかもしれない。ただプロトタイプはあって、それを使った人たちはみな感銘を受け、彼の伝道師として振る舞い始める。

プロトタイプの場合は限られたユーザに対してユーザテストを施すが、「伝道師」たちはテスタではなく、テストの場を提供する立場の人であることが多い。伝道師たちは、イノベーターである彼の理念に触れて感銘を受け、いざ試してみれば百聞は一見に如かず、その効果に驚く。驚いて、これは早く世に出されるべきだと興奮し、様々な社会実装の場を彼に提供することで協力してくれるのだ。

そこで、彼と伝道師たちは言うのである。

「わかる人にしかわからない」
「わからない人は、どうせいつまで経ってもわからない」


革新的プロダクト・サービスのモデル(再掲)

それは本当にイノベーションを起こすのか?

さて、ここでひとつ告白をしたい。

実は私は、その製品が本当に期待される効果を持つか「わからない」側の人間である。そう、私にはわからないのだ。

彼の哲学的理念にこそ共感するが、そのプロトタイプが本当に謳われる効果を持っているのか、装置構成の具体的にどの部分がユーザの感性に対し作用するのか、よくわからない。わからないけど、著名人を含む伝道師たちの輪の中にいて、

「わかる人にしかわからないからね」

と言われると、「いや、もちろん私もわかるっすよ」と応えざるを得ないのだ。それは、製品を理解したいというよりは、彼という人間の近くにいたい、彼と共感できる自分で在りたいという、そんな想いに因る気がする。

では、その製品はニセモノなのか。
それも違うと私は思う。

まだプロトタイプだから動作も洗練されていないし、単に私の感性が足りていないだけかもしれない。そんな私と対照的に、伝道師たちはその鋭い感性に従い、プロトタイプそのものではなく「バージョンを重ねたならば得られるだろう未来の効果」を折り込んで評価している可能性にある。それは投資においては必要な考え方だ。

イノベイティブな製品は第3世代で完成する、という説もある。例えばスマートフォン然り、いまは当たり前の製品も、その登場初期にはスムーズに受け入れられたわけではなかった。不具合や試行錯誤の跡も色濃く残る第1世代、第2世代を、一部のアーリーアダプタたち「だけ」が称賛し、製品世代を重ねてようやくマスに普及した。

彼のプロトタイプも、まだその段階にあるに過ぎないだけかもしれない。彼や伝道師たちはもしかしたらそんな未来を視ていて、そして私はきっとまだ未熟であるがゆえに「わからない」。


3.代謝し、恒常性を保つ「場」が、物語を創るということ

彼や、彼を囲む伝道者たちは、その後本当にイノベーションを起こせれば、イノベーターとして世に名を残すだろう。

その一方で、仮に何の結果も残せなければ、やっぱり彼らが謳うプロトタイプの効果は嘘か思い込みに過ぎなくて、私の「わからない」という感覚の方が冷静で、彼らがしていることは実体のない神を祀る新興宗教と変わらないということになる。

イノベーションと、新興宗教との違いどこにあるだろう。
科学的な裏付けの有無か、世の中に対するインパクトか、それとも……?

私は、そこに違いはないと思う。

何かエビデンスが存在すること、世の中を動かせること、結果が出ること。それらは些末な問題に過ぎない。それは本質的なことではない。

真に重要なのは、彼らが何らかの世界を構想し、その世界の実現のために恒常的な場を形作っているという事実だ。コミュニティは、「未完成の真理の完成」という未来観に突き動かされ、中心人物の情熱をエンジンとして、人を惹き寄せ、人々を巻き込み、代謝する。

それはひとつの生命であり、製品はその排泄物に過ぎない。

何を生むかは問題ではない。どこに向おうとするのか、向かうことによりいかなる物語が生ずるのかが大事なのだ。その意味で、私が訪れた新興宗教団体と、イノベーション前夜の彼は、まったく同質であることに気付かされた。

物語はなぜ必要か?

代謝し恒常性を持つ人の場の動的状態そのものを、私はいま「物語」と呼んだ。ではなぜ物語が必要なのか。

ぶっちゃけ大事なのは結果物としての製品(たとえばスマフォ)で、コミュニティ(例えばスマフォを発明したイノベーターに対する信仰)とかどうでもよくない? という気持ちはよくわかる。というか私がそうだ。

しかしそれでも「物語」が重要になる背景には、製品・サービスの開発を含む創造のあり方が、これから変わろうとしていることがある。例としてわかりやすいのが「Co-Desing」だ。

「Co-Design」はオハイオ州立大学リズ・サンダース準教授に提唱された概念だが、専修大学・上平教授の整理がさらにわかりやすいので引用する。

詳細は次の記事にまとめたので割愛するが、企業のような大組織が労働集約的にモノづくりをする時代は終わり、ユーザと共にコミュニティを形づくって取り組む時代に、さらにはユーザ自身が主体者となって創造を行う時代に、変わろうとしている。

提供される製品・サービスを何らかの「課題を解決する手段」であると考えたとき、そのような時代においては、ユーザに対して一方的に解決を与えるのではなく、ユーザと共に課題に取り組み、悩むことこそ重要となる。そして、共に悩む「場」をいかに創るかがイシューになる。

そうした場に命を注ぐものが「物語」である。

ファン・コミュニティの例

ちょっとだけ脱線するけど、「場」と言えばファン・コミュニティが興味深い。上平教授の整理によるところの「With People」のアプローチだ。

代表的な事例の1つに佐渡島康平氏のコルク社がある。佐渡島氏は『宇宙兄弟』の編集者として有名だ。コルク社ではマンガを単に「使い捨て」の製品にせず、マンガや物語世界をきっかけとしたファン・コミュニティを創ることで、動的な「熱狂の状態」を出現させた。

マンガを広く配って終わりではなく、コアなファン(わかる人)を集めることで、ファン・コミュニティ自体が物語世界を包含する「より大きな物語」としたわけだ。


ファン・コミュニティのモデル

「物語の場」の一般化モデル

さて、この記事は新興宗教の訪問体験談なので、そちらに話を戻したい。あるいは「彼」の話、宗教としての製品開発の話でもいい。

新興宗教しかり、イノベイティブ(と信じられている)な製品開発しかり、それらは人々を巻き込み熱狂させる「物語の場」であった。これを一般化すると、次のようなモデルが描けるだろう。


物語の場のモデル

そこには真理が無ければならない。ただし真理は仮説の段階であり、完成されていてはいけない。「場」は真理の完成を目的にして熱狂を続ける。

真理は新規仮説であるがゆえに胡散臭く、そのため、何らかの権威付けがされることが多い。権威とは歴史や科学などである。

真理は探究者により探求される。探求者は哲学者であり、人生の全てをその探求に賭け、その情熱が人々を惹きつける。ただし彼は主人公というよりは象徴であり、灯台の灯や、焚火の炎に近いだろう。彼の役目は人を惹きつけ、場を熱し続けることだ。

探求者には理解者がいる。理解者は共同探究者として振る舞い、あらゆる方法で場の成立を支える。時には共同探究者が場に権威付けする場合もある。

探求者と、共同探求者との周りを、多くの共感者たちが囲む。共感者たちは自らが探求者と近しいことを誇りとし、その近しさは、枠外の一般人との対比によって確かめられる。

場には、手に触れることのできる具象物が存在し、共感者たちはこれをありがたがるが、具象物は形式的なものに過ぎない。


4.新興宗教こそが未来を拓く3つの理由

さて、この記事を通して言いたいことは、上記のようなモデルを用いることで「物語の場」が成立しうること、そしてそのような「場」を用いた創造こそが、これからの時代において重要になるということである。

ここで「物語の場」の言葉は敢えて、「新興宗教」と戻して使う。私たちは新興宗教を興さねばならない。その理由は次の3つだ。

(1)Co-Designの時代にそぐう

すでに述べた通り、今後はトップダウンでの課題解決手段の提供ではなく、コミュニティ・ベースでの価値創造が重要になる。そこでは、いかにコミュニティを形成し、コミュニティを価値創造に繋げるかが課題となるが、新興宗教はこれを実現できる。

特に重要なのは「問い」である。山口周著『ニュータイプの時代』(2019)では、これからは問題解決ではなく、問題を見つけること、ひいては未来を構想することが価値になると指摘する

問題が希少化する世界にあっては、「未来を構想する力」が大きな価値を持つことになります。なぜなら、問題とは「あるべき姿」と「現状」とのギャップであり、「あるべき姿」を思い描くには必ず「未来を構想する力」が必要になるからです。

『ニュータイプの時代』より

この「問い」に当たるのが、モデルにおける「真理の仮説」だ。そはは未来の構想であり、これを探求する「探究者」とは構想者である。後述するように、新興宗教が求める真理とは未来の可能世界に他ならない。その未来を共に創ろうとして、人は集まり、熱狂が生ずる。

(2)いま、科学とは別の物語が求められている

宗教はときに科学と対比されることがある。例えば「科学的じゃない」という批判がそれだ。

しかし科学もまた普遍的な価値であるとは限らない。17世紀に起きた科学革命以降、たしかに科学は人類史のひとつの時代をつくったが、これが未来にも存続する価値感であるかは別問題だ。

いま、科学は広く人類社会に浸透し、浸透したがゆえに、すべての人々がこれを意識する必要は薄れてきている。インターネットは人々に白昼夢を見せ、価値創造のハードルを下げ、むしろ多様性と個々人の主観的創造性こそが未来を創る時代に遷ろうとしている。

そのような時代においては、全人類が共通の価値観に縛られるより、それぞれの小集団がそれぞれの真実を持つ方が有利になる可能性がある。それは、1つの科学よりも、多様な「物語」が併存する社会である。


次なるルネッサンスの進行プロセス

ここでいう「物語」とは、この記事で述べてきた動的な「場」に他ならない。場において重要なのは熱狂があることであり、場が追い求める「真理の仮説」は必ずしも科学的正当性を担保している必要はない。「物語」は、失われるべき科学に対し優越する。

(3)理想社会は、社会の周縁からの破壊によりもたらされる

これは私の個人的な危惧だけど、これからの時代、全体主義的価値観が強化される気がしている。例えばインターネットはアラブの春をもたらしたが、インターネットが反体制派の武器だったのは一時的な景色に過ぎず、その後テクノロジーは体制によりキャッチアップされ、統制の道具として威力を振るった。

たとえば社会信用システムのような社会管理の手段は、今後も様々な形態で出現し、市民の安全と自由を護り、同時に、安全と自由をある定められた枠の中に押し込めようとするだろう。

私はこうした全体主義的価値観には賛成の立場だ。私は、主義思想とは、それが集団の生存のための道具であると考える。自由主義的価値観が賞味期限を迎えているように見える一方、テクノロジーと全体主義的価値感の組み合わせの方が、より集団を生き延びさせるように私にはみえる。

短期的には。

しかし、全体主義はあくまで社会をひとつの価値観でまとめ上げるものであり、多様性は損なわれる。多様性を失った集団が生存に有利であるとは長期的には思えない。だからこそ、統合に向かう社会を内側から破壊する動き、すなわち新興宗教が重要になる。

宗教の社会における機能について、『完全教祖マニュアル』(2009)は次のように指摘する。

宗教の本質というのは、むしろ反社会性にこそあるのです。特に新興宗教においては、どれだけ社会を混乱させるかが肝だということを胸に刻んでおいて下さい。

(中略)

なぜ、新興宗教が反社会的になるかというと、そもそも新興宗教はその社会が抱える問題点に根差して発生するものだからです。

(中略)

「うるせえ、お前らがどう言おうとオレはこれが正しいと思うんだ!」というのが新興宗教なのです。ですから、宗教の役割は社会に迎合することではなく、むしろ、社会通念に逆らってでも、正しいと信じることを主張することなのだと考えて下さい。

『完全教祖マニュアル』より

「正しさの主張」は未来の構想にも通じる。

未来の可能性を思索し、切り拓くためのデザインを掲げる『スペキュラティヴ・デザイン』(2015)では、現実に捉われず可能世界を思索するアプローチのひとつとして、理想社会(ユートピア)を挙げる。理想社会の体現例として紹介されていたのは、電磁波の悪影響を訴える団体パナウェーブ研究所だ。『スペキュラティヴ・デザイン』は彼らを次のように評価する。

彼らは、なぜ現実が“現実”であって非現実が”現実”でないのかを、我々に問いかける。

(中略)

これらのプロジェクトは、想像力に満ちた独自の世界観を形にする、人間の能力を世の中に伝える。

『スペキュラティヴ・デザイン』より

パナウェーブ研究所の思想は、少なくとも私には科学的とは考えにくく、その理想もあまりに先鋭的でありすぎるように見える。つまり、私のもつ常識に対して、あまりに異質すぎるのだ。

しかしながら、その異質さこそが、新興宗教の持つ価値でもある。人工知能や生命について情報学の観点から整理する『こころの情報学』(1999)では、情報(文字)が社会を変革してきた過去を説明するとともに、「周縁」の重要性を次のように説いている。

一方、〈周縁〉は、社会の端にある反秩序・反規範的な存在です。たとえば、道化とか、大道芸人、前衛芸術家、路上生活者などを思い浮かべれば分かりやすいでしょう。

(中略)

〈周縁〉的な人々は、地味な背広などではなく、奇妙で異様な服装をしていますし、目立つ存在で、普通の社会からは排斥される、いわば「異人」たちです。しかし、こういう異人たちが、規範的な社会を覆っている表層的イメージの欺瞞を暴き出し、社会や文化に新たな生気を吹き込む、と山口は説きます。

(中略)

周縁的な要素が社会を活性化するというわけです。

『こころの情報学』より

統制から逃れたいという衝動の重要性は、科学という既存スケールの限界、異質なものの包含と併せて、人工生命研究の第一人者・池上高志も次のように述べていた。

そもそも、世界は人間の知覚やロジックに合わせてできていない。それならば、人間の知覚やロジックのスケールを超えた世界の在り方を考える必要もあるのではないか、というのがALifeの大きなパラダイムシフトになってきたのです。

(中略)

つまり“わからないもの”を同時に内包していなければ、生命が持つクリエイティヴィティや拡張性は生まれないことになるのです。

『WIRED 2020 vol.36』より

一方で生命の定義は「所有から逃れること」だと私は考えています。所有から逃れて自律性をもちたいという動機から、さまざまな活動が生まれるわけです。

『WIRED 2020 vol.36』より

生命が、恒常性を保とうとする自己言及なシステムならば、社会もまた生命である。社会が生命であるならば、社会は異質なものを包含し、常に代謝を続けるべきであり、この代謝をもたらすものこそが、今はまだ存在しない真理を求め熱狂する人々の物語、すなわち新興宗教なのである。

ゆえに、私たちは新興宗教を興さねばならない。

それは例えば小さなコミュニティでも、スタートアップでも、あるいは独立国家でもいいけれど、科学とか既存の価値には捉われない真理の追及、そのために熱狂する場の創造を、始めるべきだ。

 

  

 

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