『素晴らしい新世界』著者の掲げる「新しい全体主義」実現のための4要件

いなたくんへ

ディストピア小説と言えば、代表的なものとしてジョージ・オーウェルの『一九八四』(1949)が思い浮かぶ。特に、監視技術の発達した昨今では、すわ『一九八四』の実現であると引き合いに出される。

ところが、現代中国の監視社会化を分析した『幸福な監視国家中国』(2019)では、中国の現状は、『一九八四』よりもむしろ『素晴らしい新世界』(1932)のそれに近いと指摘する。

また同書は、「『一九八四』は後継作品を挙げることが難しい」が、「『素晴らしい新世界』の世界観がその後の多くの作品に受け継がれている」とも指摘していて興味深い。

現代の監視社会化は、「ハイパー・パノプティコン」や「ポストモダン的監視」と呼ばれ、権力による一方向的監視とは異なる社会を現出させようとしている。ナッジや行動科学的経済と呼ばれる、人に無自覚的に行動変容を促すその方法は、中国に特有の話では決してなく、いまや世界的イシューとなっている。

ということで『素晴らしい新世界』を読んだところ、原書出版の14年後に著者オルダス・ハクスリーにより書かれた「著者による新版への前書き」も収録されていて、ここで描かれる「新しい全体主義」と、その実現のための要件が非常に示唆に富んでいた。ので、今回紹介してみたい。

Summary Note

1.ディストピアの源流としての『素晴らしい新世界』

2.いま世界が直面する「新しい全体主義」は、悪なのか?

3.「新しい全体主義」実現のための4つの技術

4.「新しい全体主義」に予想される課題は「変化」


1.ディストピアの源流としての『素晴らしい新世界』

オルダス・ハクスリーの『素晴らしい新世界』(1932)は、フォード歴632年(西暦2540年)に実現するユートピアを描いたディストピア小説だ。

自然生殖は失われ、子どもは人工授精によりビンで生産された後、アルファからイプシロンの5つの階級に分別される。このとき、下級階級ほど下等労働を好むように「条件付け」と呼ばれる介入がなされ、各階級は与えられた仕事に従事する。21世紀現在のような歴史、宗教、価値観ははすべて失われている。

冒頭でも述べたけど、本書を読むきっかけは『幸福な監視国家中国』(2019)だった。

同書は、テクノロジーにより社会の「安全」が担保され、社会信用システムにより条件付けがなされる現代中国を分析した好著だ。ただし、ナッジや行動科学的経済の是非はいまや世界的なイシューになりつつあり、同書の射程は中国に留まらない。

で、『幸福な~』では、中国や世界で起こる事象が、ディストピア小説『素晴らしい新世界』の未来像に重なるものと指摘している。

筆者らは人々のより幸福な状態を求める欲望が、結果として監視と管理を強める方向に働いているという点では、現代中国で生じている現象と先進国で生じている現象、さらには『すばらしい新世界』のようなSF作品が暗示する未来像の間に本質的な違いはないと考えています。

『幸福な監視国家中国』より

『素晴らしい新世界』が描くディストピアは、よく『一九八四』と対比される。その上で『幸福な~』では、「『一九八四』は後継作品を挙げることが難しい」が、「『素晴らしい新世界』の世界観がその後の多くの作品に受け継がれている」と指摘し、その理由を次のように推測している。

人々に広く共有されている資本主義的・功利主義的な価値観をベースにしながら、その行き着く先を見事に暗示しているからかもしれません。つまり『一九八四』が20世紀初頭の社会主義のイメージに強く影響された世界観であるのに対して、『すばらしい新世界』はすぐれて資本主義的な、ある意味ではその理想形である未来像を示している、ということです。

『幸福な監視国家中国』より

さて、『素晴らしい新世界』こそが現代を、あるいは今後の社会を言い当てているとするならば、恥ずかしながら未読勢の私としては読まないわけにはいかないだろう。

ということで読んでみると、正直なところ、胎児への介入により人間の自由を操作する、という方法論にはちょっと無理があるように思えてしまった。ナッジのアナロジーにしても、あまりに介入的・侵襲的でありすぎる。私はそのような前提に同意できなかったので、本書の描く未来像が現代社会に通底すると言われても、ちょっと呑み込むのに喉がつかえた。

ただ、私が読んだのは光文社古典新訳文庫だったのだけど、そこには「著者による新版への前書き」も収録されていて、これが非常に示唆に富む内容だった。これは原書発表から14年後に当たる1946年に著者ハクスリーにより書かれたものだ。

特に、ユートピア(あるいはディストピア)の要件とも呼ぶべき「隷属への愛をもたらすための4つの技術」は、『素晴らしい新世界』の思想の基底を成すのみならず、21世紀のいまからの未来を考える上でも普遍的なものだと思う。

ということで、以下に「著者による新版への前書き」の感想を述べる。


2.いま世界が直面する「新しい全体主義」は、悪なのか?

まずは未来予測について。ハクスリーは、「近い未来」には全体主義化が起こると述べる。その理由は「近い未来は近い過去に似がちだから」だ。

これからは、平和の時代とはいかなくても、破壊の程度が限定的で部分的な戦争の時代になるかもしれない。(中略)その結果生じるのは、きわめて明らかなことだが、かつてないほど急速かつ徹底的に起こる一連の経済的及び社会的変化だ。

この無痛とはとうてい言えない手術は高度に中央集権化された全体主義的国家によって実施されることになるだろう。それはもう必然的にそうなる。なぜわかるかというと、近い未来は近い過去に似がちだからだ。

近い過去において、科学技術が急速に発展したのは、大量生産経済システムのもとにある、人口の大半が無産者である社会においてだった。そこでは経済的、社会的混乱が引き起こされる傾向があったので、混乱に対処するため、権力の集中が起こり、政府の統制が増したのだ。

『素晴らしい新世界「著者による新版への前書き」』より

この文章が書かれた1946年の後、世界(とりわけハクスリーが出生し移住した英米社会)が全体主義化したかと言えば、肯定はしがたい。

ただ、ここの指摘でおもしろいのは、全体主義が経済的、社会的混乱に対する統制のために起こる、という認識だ。ハクスリーのいう「近い未来」のその先、21世紀の現在は、20世紀に比べてさらに変化の激しい時代と言われる。であるならば、現代こそ全体主義化が進むはずだが、実際にはどうだろう?

ここでハクスリーは「新しい全体主義」をいわゆる全体主義とは区別し、その内実を次のように説明する。

もちろん、新しい全体主義が必ず古い全体主義に似なければならない理由はない。棍棒に銃殺隊、人為的な飢餓、大量の集団的監禁に集団的追放といった手法は、非人間的であるばかりでなく(近ごろはみな非人間性をあまり気に病まないが)、明らかに非効率的だ。

真に効率的な全体主義国家というのは、強大な権力を持つ政治的ボスの小集団と、それに奉仕する事務方の軍団が、隷属を愛するゆえに強制されなくても働く奴隷の大集団を管理する国家だ。現代の全体主義国家において、大集団に隷属を好むよう仕向ける役目は、プロパガンダを担当する官僚と、新聞社の編集主幹と、学校教師に与えられている。

『素晴らしい新世界「著者による新版への前書き」』より

ハクスリーの「新しい全体主義」は、いま実現しつつあるのか?

官僚とメディアと教育とが全体主義を実現する、という指摘は興味深い。これは、これからの世界をの一面を言い当ててはいないだろうか。

『幸福な監視国家中国』では、近代的な監視社会「ハイパー・パノプティコン」、あるいはポストモダン的監視について、次のように述べている。

そして3番目が「万人の万人による監視」、彼の言葉を借りれば「ハイパー・パノプティコン」です。これは、テクノロジーの進化を通じて「監視」が社会のいたるところで行われるようになった結果、人々がエリート層や政府も含めて「監視されるもの」として平等になり、その平等性への一般的な信頼ゆえに社会の同一性と安定性が保たれる、といった状況をイメージすればいいでしょう。

『幸福な監視国家中国』より

大多数の人は監視されていることを意識していないのに自然と不適切な行動を取らないように誘導される、監視者と被監視者という二分法が万人の万人による監視に取って代わられるという特徴を持ちます。

『幸福な監視国家中国』より

ハクスリーのいう「新に効率的な全体主義国家」において、大集団は強制されなくても働くよう管理される。ここで「働く」とは、単に労働だけを意味せず、社会をある方向に向かわせるためのあらゆる行動と解釈できる。ここで「管理」とは、仕組みこそ官僚が作るとしても、それは市民の相互的な関係により担われてもいいだろう。

すると、ナッジや行動科学的経済が実現する「市民が(自覚的な)強制がなくとも社会に死する行動をとる社会」は、ハクスリーのいう全体主義に近いものに見えてくる。

21世紀において、「メディア」は権力対市民の一方向的なものから、市民間の多方向的なものに変わっている。そうしたコミュニケーション・テクノロジーを土台として、官僚が社会全体をデザインし、人々はナッジや行動科学経済により「在るべき行動」を学ばされていく。

「新しい全体主義」は悪なのか?

ところで「全体主義」は、本来的にはファシズムとか独裁的政治体制を指す言葉であり、イメージはよくない。しかしハクスリーの言う「新しい全体主義」「真に効率的な全体主義」もまた悪かと言えば、私はそうは思わない。

全体主義が問題視されるのは、自由を制限するからだ。自由は制限されるべきではない。その意味で、胎児への介入によりまやかしの自由を刷り込む『素晴らしい新世界』の未来もまた、私は否定する。

その一方で私は、無際限の自由が認められるべきとも思わない。その帰結は無秩序にしかならないからだ。社会が個人の集合で成り立つ以上、成員に対して何らかの制約が課されることは必要であり、重要なのは自由と制限とのバランスだと考える。

そこで現代の社会を見ると、我々は(過去に比べれば)かつてないほど大きな自由を手にし、社会は多様性を許し、むしろ分断が課題視されるほどである。そうしたミクロレベルでの自由、ミクロレベルでの多様性を許容しつつ、わずかな行動誘導で社会全体の秩序が守れるならば、「新しい全体主義」はむしろ理想的ではないかと思う。

これまでに私が描いた理想的な社会もその範疇にある。

では、「新しい全体主義」が悪いものではないとしたとき、どのように完成させればいいだろう。ハクスリーはそのヒントも述べていた。


3.「新しい全体主義」実現のための4つの技術

ハクスリーは次のように述べている。

真に革命的な革命は、外の世界ではなく、人間の魂と肉体の内側で起こる。

『素晴らしい新世界「著者による新版への前書き」』より

その上で、未来において起こる革命とは、大集団に「隷属を愛させること」に関するだろうと予想する。「新しい全体主義」で大集団が「強制されなくても働く」のは、「隷属を愛する」ことが理由であり、官僚や、メディアや、教育はそのために、「大集団に隷属を好むよう仕向ける」ことが求められるからだ。また、それが「幸福の問題」であるとも指摘していて興味深い。

将来実施されるべきマンハッタン計画なみに重要な研究プロジェクトは、主導する政治家や参加する科学者が〝幸福の問題〟と呼ぶであろう事柄についての、政府をスポンサーとする大規模な調査である。〝幸福の問題〟とは、言い換えれば、どうやって人々に隷属を愛させるかという問題だ。

『素晴らしい新世界「著者による新版への前書き」』より

「隷属を愛させる」とは、現代的には、既に述べた通り、無自覚的であれ市民に行動変容を受容させ、「万人の万人による監視」により、社会規範に則った行動を取らせることに相当する。

ハクスリーは、そのような「隷属への愛は、人間の心と身体の中で深い個人的な革命を起こさない限りつくり出すことができない」とし、そのために次の「新しい技術」が必要になると考える。

第1に、高度に改良された暗示の技術である。

第2に、個々人の違いを区別するための充分に発達した科学である。これによって政府は各個人に社会的、経済的ヒエラルキーにおける適切な位置を指定することができる。

第3に(たとえユートピアにいても、人々はちょくちょく現実を逃れて休みをとりたいと思うものなので)、アルコールや薬物の代替品が必要になる。

第4に(ただしこれは長期間を必要とするプロジェクトであり、何世代ものあいだ全体主義的統制を続けなければ成果は出ないが)、優生学を応用した絶対確実なシステムが必要である。これは人間を規格化して生産することにより、管理者軍団の仕事をやりやすくするのが目的だ。

『素晴らしい新世界「著者による新版への前書き」』より

最大の課題は「労働」

1つめの「行動に改良された暗示の技術」は、ナッジや行動科学的経済がまさにそのものだと思う。

3つめについて、ひととき現実を逃れて休みを取る、という意味合いでは、現代社会はすでに娯楽に溢れている。もっとも根本的には、脳内伝達物質の制御とか、人体への介入が求められるだろう。そうしたテクノロジーによる「至福の獲得」は『ホモデウス』(2018)などでも予想されるところだ。それも、精神薬など、部分的には実現しつつある。

大きな課題となるのは2つめと4つめだろう。2つめでは「各個人を社会的、経済的ヒエラルキーにおける適切な位置を指定すること」を挙げ、4つめでは「人間の規格化した生産」を挙げている。両者とも、社会を安定的に運営すること、要するに労働の問題を述べている。

「エッセンシャルワーク」が最近注目されるが、社会の運営のためには不可欠な仕事があって、それは誰かが担わなければならない。それは、必ずしも「自由」や「幸福」とは両立しないかもしれない。

ユートピアを描くにあたり、ハクスリーにはそのような課題意識があって、だから上述の2つめと4つめのような要件を挙げたり、『素晴らしい新世界』においては、所定階級に指定された胎児が成長後にエッセンシャルワークに幸福を感じるよう、人為的に条件づける、という方法論を描いたのだろう。

なお、ハクスリーはこの前提として、「経済的安定がなければ隷属への愛は生まれようがない」と述べており、労働を無くして社会全体で停滞しよう、という選択肢は最初から除かれている。

いずれにせよ、強制が必要すること、それを強度に侵襲的方法で幸福と錯覚させるアプローチはグロテスクであり、ゆえに本書はディストピアとして位置づけられているのだろう。

労働要件をどう解決するか

「隷属への愛」を実現しようとした場合に、労働が問題となるとして、『素晴らしい新世界』とは異なるアプローチでどうこれを解決できるか。

21世紀の現在ならば、高度なAIやロボットなどの自律機械に労働を任せる、という選択肢も視野に入る。いわゆる純粋機械化経済である。

ただ、十分に実現可能な未来と私は考えるけど、時間的には少し遠い。それ以前に別の方法はあるだろうか。

例えば、自律化技術により不可欠労働の量を低減しつつ、社会全体でその労働を分け合うことはできないだろうか。

労働にも種類があり、賃金労働のみならず、家庭での労働や、地域的な労働なども存在する。もちろん完全な平滑化はナンセンスだが、ある程度薄く社会に広げることを考えたい。『素晴らしい新世界』のように一部の階層だけにこれら労働を担わせ、他の階層は悠々自適にひたるのでなく、個人が納得できる形でそのような仕事に就く方法論は、検討の余地があるだろう。


4.「新しい全体主義」に予想される課題は「変化」

最後に補足をしておきたい。

ここまで、私はハクスリーのいう「新しい全体主義」に好意的に書いてきた。過去の記事でもそのような社会を理想として描いてきたし、今もそのことに変わりはない。

しかしながら、当然だが「新しい全体主義」にも課題はある。

例えば、行動誘導の「正解」を誰が提示するのか、という問題。これを少数の為政者に任せるならば、それは結局のところ独裁を招く。もっとも、「新しい全体主義」では構成員の自由は担保されるので、独裁が自由とが直ちに衝突するとは考えない。問題は自由ではなく、社会の変化が制限されるリスクである。

自由や多様性が担保されるとしても、例えば意思決定が少数者に委ねられることで、社会全体の可能性があるフレームの枠内に収まってしまうならば、結局のところそのような社会は柔軟性に限界を抱えることになる。そうして自己再編の幅を制限されれば、いずれ環境の変化に耐えられず淘汰されうる。

『素晴らしい新世界』で最も首肯できなかったのがこの点だ。本書の社会は「安定性」を最大の目的としていた。しかし社会が持続性を保つためには、逆説的だが常に変化を連続させなくてはならない。

伝統とは革新の連続である。

虎屋17代当主黒川光博

では、どうするか。

構造に変化を織り込む

私は2つの解決策があると思う。

1つは、「新しい全体主義」のシステムに、予め社会全体を変化させる動機付けを織り込むことだ。この方法論は別の機会に述べたいと思う。

そしてもう1つが異端を認めるということ。結局のところ変化は周縁から生じる。ある秩序が変化をしようとすれば、秩序への挑戦、秩序の破壊は常に試みれられねばならない。それは、「新しい全体主義」のような、万人が自由を謳歌する理想的な社会でこそ、必要な悪となるだろう。

 

ということで、色々未解決の課題はあるけれど、理想的な未来像を考える上で参考になる一冊だった。ディストピアならぬユートピアの実現を待ちたい。

 

  

 

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