クー!(ソ連のSF映画『不思議惑星キン・ザ・ザ』が名作すぎた)

いなたくんへ

クー!(2年ほど前からある学際系の研究会に参加させていただいていて、そこで出会った先生が別の方と、SF作品の重要性について話されていた。横でなんとなく聞いていると、先生は突如として謎のポーズをとり言い放つ。

「クー!」

その謎のポーズがこちら。

話を聞くと、旧ソ連時代のSF映画『不思議惑星キン・ザ・ザ』(1986)作中の挨拶とのこと。本作は同国で1500万人以上を動員しカルト的人気を誇った作品で、「クー!」の挨拶はいまもロシア人の間で通じるとか。

ちなみに上記画像は『キン・ザ・ザ』30周年を記念してのDoodle(Googleの日替わりロゴ画像)である。

なんとなくB級感漂うタイトルだけど、素晴らしい作品とのことでDVDをお借りして観てみたところ、これが私のベスト映画にランクインする文句なしの名作だった。ということでここにいくつか感想を書く。ネタバレはそんなに踏み込んでないと思う。

Summary Note

冒頭15分の「異文明との邂逅」描写の無駄のなさ

「クー!」「キュー!」は我々の未来かもしれない

君はウラジミール氏の選択ができるか


冒頭15分の「異文明との邂逅」描写の無駄のなさ

物語は、主人公のウラジミール氏が奥さんから買い物を頼まれ街に出るところから始まる。街では裸足の男に出会う。拾いものの外套を羽織る小汚い男は、冬のモスクワで素足のまま、ウラジミール氏に尋ねる。

「この星のクロス番号を教えてくれ。スパイラル番号でもいい。番号設定が乱れて帰れんのだ。見てくれ。私の星はベータ星雲のUZM247だ。そしてこれが空間移動装置」

男を警察に届けねばと会話を続けるウラジミール氏。埒が明かないので、男が「空間移動装置」と主張する手の上の装置に手を伸ばし押す。と、同時に辺りは一面の砂漠となる。

超テクノロジーの演出が見事すぎる

物語全般に言えるのだけど、本作は空間移動をはじめとした超テクノロジーの演出に無駄がない。まさに一瞬で切り替わったり、隣から聞こえていた声がふと途絶えたり、事象が起きたこと、終わったことに気づけない。静謐で、超現実的。少なくともハリウッド系の演出とは体系が異なる。

現代の地球の技術水準からは想像も、原理の推測もできない超技術。例えば江戸時代の人間が初めて蒸気機関を目にしたときとか、圧倒的な文明の格差を目の当たりにした時、こんな印象をもつのかな。

空間移動の当事者であるウラジミール氏と、巻き込まれたバイオリン弾きの青年ゲデバンのリアクションは秀逸で、困惑と苦笑いと「やっちまった」感が入り混じり、何が起きたかほぼ理解できない。超常現象が身に起こったらこうなるよね、な反応が名シーンすぎる。

これほど異文明遭遇の追体験ができる映画はない

状況を呑み込めぬまま、砂漠がカラコルムだと仮定して街を目指す2人。しかし起こる出来事は、そこが異星であるを決定付ける。遠方の空から耳慣れぬ機械音を伴って、釣鐘型の浮遊物体が飛来したのだ。(この機械音がまた独特でイイ)

浮遊物体(宇宙船ペペラッツ)が着陸すると、中から2人の男が現れる。男たちは謎の伴奏音にあわせて「クー!」「クー!」「クー!」「クー!」と叫びながら、この記事冒頭で先生がみせた挨拶を繰り返す。

全く意味が分からない。

シュールすぎる。

が、それは視聴者だけでなく、劇中のウラジミール氏とゲデバンにとっても同様である。現れた男2人は「クー」「クー」とだけ言いながら、顔をしかめたり、話し合ったりして、その思考は読めない。英語も仏語も通じない。彼らは笑顔も見せてくるけど、それは善意の表現というよりは、警戒か、何か別の意図が感じられる。

場所は見知らぬ砂漠のド真ん中。ともかく身振り手振りでコミュニケーションを試み、船に乗せてもらう代わりにコートと毛皮の帽子を男たちに与える。交換が成立。と思いきや、男たちは荷物を奪ったまま飛び去っていくのであった。

立ち尽くすウラジミール氏とゲデバン。

理不尽すぎる。
しかしこの理不尽、既視感がないでもない。

私はフランスやイタリアで物盗りに絡まれたり、中国で故同の奥に連れ込まれ恐喝されたことがあるけれど、あの感じにとても似ている。相手の浮かべる表情が善意か悪意かもわからず、言葉も十分に通じず、異文化のただなかで交渉材料も十分にない(結局お金を盗られるしかない)。

異星人たちが飛び去ったときの「命があって良かった」感。
地球でも治安悪いところじゃこうだよなあ、感。

中世に北前船の難破でロシアに漂着した大黒屋光太夫とか、あの時代の異文明との邂逅って、もしかしたらこんな感じだったのかもしれない。とにかく得体が知れなくて、理解のしようもなくて、こわい。

ここまでで映画の開始から15分ほど。インパクト、強烈すぎる違和感、そして何よりもリアリティ。このどれをとっても「異星人との遭遇」モノでは最高峰だ。


「クー!」「キュー!」は我々の未来かもしれない

さて、ペペラッツで飛び去った男2人であるが、ウラジミール氏がマッチを擦ると戻ってくる。実はこの星、キン・ザ・ザ星雲のプリュクでは、マッチが超高価な物質なのだ。

ペペラッツに乗せてもらい、狭い船内で互いを探り合うウラジミール氏及びゲデバンと、男2人。やがて男たちはロシア語を話し出す。「ロシア語しゃべれるじゃないか」と指摘するウラジミール氏対して、男たちは答える。

「言語中枢の読解は難しいんだ」
「しかも若造は2か国語で思考する」(※ゲデバンはグルジア語も話せる)

そう、彼らは思考が読みとれるのだ。

なぜ彼らは「クー!」なのか

ようやく彼らが「クー!」しか発話しない理由が見えてくる。互いに思考が読み取れる世界では、わざわざ言葉を使う必要がないのだ。思考の直接伝達が言葉を単純化させている。

そしてこのような『キン・ザ・ザ』の世界は、私たちに全く無関係というわけでもない。

SF同人誌『Sci-Fire2017』(2017)収録の短編『AIことばは消え去って』では、ユビキタス・コンピューティングが実現し、AIが人々の感情を伝達する未来が描かれている。そこでは思考と思考が繋がることの帰結として、言葉が失われる。(ちなみにこの物語では、言語がむしろ不完全であることを逆手にとって「個」の独立が計られる)

脳同時を直接接続する「ブレインネットワーク」はポストヒューマン論の行きつく先であるが、その前段階として、このようなAIを介しての感情伝達が実現することは非現実的な話ではない。機械学習が人間の「眼」の認識率を遥かに上回って久しいところ、人間にとってあいまいなものの判別は機械に有利になるだろう。私は特に「感情」や「心」の読み取りこそ、人工知能のキラーコンテンツになると予想している。

こうしたAIがたとえばARのようにウェアラブル化すれば、私たちは他人の感情を読み取る道具を手にする。そんな道具に慣れたとき、私たちは言葉を失い、あらゆる伝達を「クー!」で済ますのかもしれない。

閑話休題:「心」と言語の関係性

少し話が外れるが、人間の子どもが3~4歳に獲得する「心の理論」と呼ばれる能力、「他者にも心があることを理解する能力」は、新石器時代の人類が進化の末に獲得したものとされる。動物の心を類推できることでその動きを予測でき、狩りの効率を劇的に向上できた、というのが原因の仮説だ。

人工知能の可能性を探求した良書『AIは心を持てるのか』(2015)では、新人類の「心」の獲得に重要な役割を果たしたのが「言語」であると指摘する。その言語も、本書によれば「初期の人類の言語は、ソーシャル言語、ご機嫌取りのための手段」であり、「彼らはソーシャルな情報の送受信のための手段として言語を使った」。すなわち言語とは「完全にゴシップのための言語だった」。

このソーシャルな言語、音声版毛づくろいはやがて15万~5万年前までの間に急速に進化し、現在われわれが使う汎用言語、ソーシャルなこと以外の情報も伝えられる言語になったという。

言語の初期の目的が感情の伝達であったなら、それが機械的手段により外部化できたとき、やはり言語を失うというのはあり得る話に思えてくる。ただし現在の我々は言語を感情以外の、より複雑な事象の伝達にも使っていて、であるならば言語は失わずに済むのかな、とも信じたい。

なぜ「キュー!」なのか

ところで、あらゆる表現を示す「クー」であるが例外がある。それが「キュー」だ。
惑星プリュクでは「クー」と「キュー」の2つの言葉が存在し、それぞれ次のように説明される。

  • 「キュー」 …公言可能な罵倒語
  • 「クー」 …それ以外のすべての表現

なぜよりによって罵り言葉だけが独立できているのだろう。これは私の仮説だが、「思考を読み取る」行為は積極的受容と言えるところ、攻撃表現に際してだけは攻撃者の能動的行動が必要になるのではないか。

積極的受容とは、意識して「汲み取る」ということだ。日常生活においては相手の思考を意識して読み取る。特に愛情表現などの友好的・行為的コミュニケーションは、悪いものではないので積極的に受け取れる。

その一方で、相手が自分を攻撃するとなったなら防御するのが普通だろう。防御する、つまり思考の読み取りを積極的には行わない相手に対して、なお罵倒を伝えたい。そのための手段が「キュー!」という発話なわけだ。

感情伝達技術の確立は我々から言葉を失わせる、という予想を以上では述べたが、『キン・ザ・ザ』はそれでも残る言葉の可能性を教えてくれる。それはもしかしたら罵倒語だし、あるいは他の積極的意思疎通のためにも、言葉が使われるかもしれない。

さりげない描写にグッとくる

ウラジミール氏はある交渉で、「ウソだと思うならオレの思考を読み取ってみろ」と伝える。言われた相手は思考を読み取るが、それは「妻は大丈夫かな」というもの。対してウラジーミル氏は「そうじゃない、もっと表層を」と指摘する。

小さな場面であるが、これは異星文明と格闘するウラジミール氏が実は地球に残した妻を心配し続けていることを、一往復の会話で表現した描写である。

『大長編ドラえもん・のび太とドラビアンナイト』(1991)では、アラビアンナイトの舞台とされるアラビア世界へのタイムスリップにあたって、間違えて794年の平安京遷都の場面に行ってしまう。これはツアーガイド・ミクジンのおっちょこちょいを表現しつつ、アラビアンナイトの世界が日本史においてはどの時代に相当するのかを子どもたちに伝える、藤子・F・不二雄ならではの教育的な描写である(と私は思っている)。

ウラジミール氏の会話も同様に、さりげないながらも奥行きを伝える秀逸な描写と言えよう。

あと演技も素敵なんだよね。思いがけず地球に電話が通じたとき声を荒げ涙する様子とか、漂流者の心細さが伝わってくる。演技の巧みさはウラジミール氏にとどまらず、各登場人物とも個性的で人間味あふれて素晴らしい。


君はウラジミール氏の選択ができるか

ウラジミール氏の(キャラクターとしての)弱点を挙げるなら、交渉が下手すぎるところか。虎の子のマッチを易々と相手に渡すとかありえない。異星文明という超絶アウェイ環境で相手を信用しすぎである。

現実でこんな交渉やったら全部持ってかれちまうぜ~、と思って観てたらホントに全部持ってかれてて笑った。でもすべてを失ってからが本番、というのは物語の構造として重要だね。

ウラジミール氏は他にプライドの高さも弱点だけど、チャトル人とパッツ人という身分制度、さらにはエツィロップによる支配という理不尽な社会制度に対して、視聴者の憤りを代弁してくれもして、頼もしくもあったりした。

ちなみにエツィロップ(ECILOP)が何の風刺かは、解説記事を読むまで気づけなかった。こんな簡単なアナグラムよく検閲通ったな。ニヤニヤしながら横暴に振舞うエツィロップの醜悪さは、生理的嫌悪感を催すのに十分すぎた。

そんなウラジミール氏がすべてを失ってからプライドを捨て、帰還のために手を尽くす姿は、冒険譚としてワクワクできた。さらにはいざ地球帰還の機会が現れたときの「選択」である。義理堅いというか漢というかソ連版メロスというか、私じゃちょっと考えられない。その「人間」の魅力こそ本作の醍醐味である。)

クー!(独特の世界観、病みつきになる音楽、考え込まれた舞台設定、そして人物描写。どれをとっても最高の映画であった。)

 

  

 

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