いなたくんへ
梅雨もたけなわ、大気中の一酸化二水素濃度は依然高水準で推移し、何となくキモチワルイ今日この頃。陽射しの眩しい夏の景色が楽しみ。
日差しと言えば紫外線にはコラーゲンが効くとか。友人が女子会のレストラン選びで「コラーゲンコースいっちゃう??」と大盛り上がり。あれっ、でもそう言えばあの子は生物学専攻。コラーゲンが経口摂取では吸収されないことを知っているはず。ということでこっそり聞くと、
「そうそう、意味ないんだけどね!」
と笑顔で返事をくれた。私は自分の無粋さに恥ずかしくなった。大事なのは根拠ではない。雰囲気だ。彼女の女子力を見習わなくては。
前フリが長くなったけど、科学的根拠があるのかないのかよくわからない話って色々あるよね。それが酷いものでは「似非科学」とか呼ばれちゃうけど、これは世界的な傾向の様子。少し前のWIREDにこんな記事が掲載された。
記事ではIMTルッカ高等研究所ウォルター・クアトロチョッキ氏の解説を紹介。氏はネットコミュニティが持つ次のメカニズムを挙げている。
- SNS空間は似た者同士のコミュニティをつくる
- コミュニティでは「自分の価値観を否定するもの」や「目にしたくないもの」は自主的に排斥され、「人々は自分の信念と共存できる“証拠”だけ」がシェアされる
- ある情報の真偽に対するリサーチは「すでに自分のなかで決まっている“答え”を確認する行為」でしかなくなる
この結果「科学の知見は消えていく」。
こうした現象を見ると、未来に対する不安もぬぐえない。世界を未来に進めるはずのテクノロジーは、むしろ社会の分断を具象化させはしないか。その結果、科学が共通言語としての機能を失う「暗黒時代」が来るのではないか。今回はそんな未来を予想してみた。
その上で、科学の知見が失われる未来も肯定的に「暗黒時代2.0」のその先を考えてみる。
Summary Note
ネットコミュニティはビオトープ(生息空間)を実現したが、エコーチャンバー(用明室)としても機能し、世界を分断する
テクノロジーが分断の具象化を進め、科学の知見が失われる「暗黒時代2.0」をもたらす
「暗黒時代2.0」のあと、分断された世界を再統一するルネッサンスが起こる
- シナリオ1:科学が再興する
- シナリオ2:科学は失われたまま「次なる価値観」が絶対者として現れる
WIRED記事ではSNSなどのネットコミュニティを、自分が信じる価値観が反響する「エコーチャンバー(共鳴室)」と呼んだ。私はこの「共鳴」に加えて、ネットコミュニティの効果に「分断」を挙げたい。
最近話題になった資料に「経産省若手のスライド」がある。日本社会の課題をまとめたもので、未来に対する危機感が表されたものとして賛否を呼んだ。
資料では強い危機感を持ちつつ現状を整理し、その上で明るい未来に繋げる方策があるはずという建設的メッセージに繋げており、私は好感を持った。その中で気になったのが次のページだ。
「情報の自己増殖」なるキーワードはWIRED記事の「エコーチャンバー」とも符合する。そしてポイントとなるのが、エコーチャンバー同士が別々に分断されている点だ。
「分断」の典型例は政治だろう。ある政党に賛成派と反対派のコミュニティをTwitterなどで比べると、全く異なる世界線が見られておもしろい。「Alternatiev facts」発祥の国・米国では「Devided States of America」なる言葉も生まれた。
あるいは「テレビを見る層と見ない層」の話とか。次の記事は(真偽はともかく)一例としておもしろい。
同僚の女性と他愛もない話をしていたら、同僚がとんでもないことを言い出した。
「テレビ見ないからみんなバカになるんですよ。そういう人は芸能人の話にも疎いし、話に厚みがないじゃないですか。」
俺は衝撃を受けた。そもそもこの女が自分のことを賢い側の人間だと認識していたことに驚いたが、それ以上にテレビ見ないとバカになると認識している人間がこの世にいることに驚いた。
この記事では「どっちが正しいということはないのだろう。月並みな言葉で言えば、価値観が違うのだ。」とまとめている。まさしくどちらが正しいかは別として、価値観の分断が起きている。
情報チャネルが「放送局から大衆へ」と単極である点で、テレビはまさに旧時代を象徴するメディアだ。近年の「分断」は、ネットの出現により情報チャネルが単極から多極へと遷ったことが背景にある。
多極化により新たに出現した生態系を「ビオトープ(生息空間)」の言葉で整理したのが、佐々木俊尚著『キュレーションの時代』(2011)だ。本書はネットコミュニティをビオトープと呼び、「情報を求める人が存在している場所」と説明する。
「生息空間」なる名づけは見事だ。私もTwitterで居心地の良いタイムラインを作って、日々これを眺めて一息つく。この空間はマスメディアには作れない。
マスメディア時代には切り捨てられ、存在できなかった多様な価値観が、ネットにより「情報が共有される圏域」として存在できるようになり、「圏域が小さいけれども情報流通は濃密」なコミュニティを生んだ。というのが『キュレーションの時代』の解説だ。
Twitterのタイムラインがとにかく快適すぎることもあり、私はマスメディアの衰退とビオトープの出現に喜んでいる。ところで改めて本書を読み返すと、本書もまたネットコミュニティが「分断」をもたらすメカニズムに言及していたことがわかる。
本書によれば、ビオトープでは「共感」が重要になる。テレビのような単方向の価値提案が意味を失うことで、「他者からの承認と社会への接続こそが人々の最大のテーマ」となるためだ。本書の予想では、マスメディアを経由して情報をコントロールする旧来の広告は消滅し、「いかに的確なビオトープに情報を投げ込むか」が重要になる。「共感に結びつかなければそれは無価値」とまで言っている。
これは、その人が見たい情報、共感される情報「だけ」を投げ込むことのインセンティブが生じている、という指摘とも取れる。その結果生じるのが「分断」である。
また本書は、検索エンジンでの能動検索だけではなく、他人の視座を借りることが重要になると予想する。SNSで誰かをフォローすれば自分の知らない情報を流してくれるので新鮮よね、ということで、この視座の提供者が「キュレーター」だ。
しかし「自分の見たいものを見せてくれる人」しかフォローしなければ、得られる情報に多様性は期待できない。本書は「事実の真贋の見極めは困難だが、人の信頼度の見極めは容易」とするが、「信頼度」とは自分の価値観で計る主観的指標でしかなく、客観的事実の見極めができることにはならない。
もちろん、自分ひとりで考えるよりも知見が広がるのは間違いない。ただし、自分の価値観「だけ」が増幅され視野狭窄に陥る危険性も孕むという、表裏一体の話である。
私は本書の整理について、基本的にはネットコミュニティの正の側面をたたえたものと受け止めた。そして同時に、エコーチャンバー的負の側面をも予想していたわけだ。
そしてこの負の側面がテクノロジーの発達に伴い悪化していく、というのが私の予想だ。
暴走族の絶滅が危惧されて久しい。法規制など社会の努力は大きいようだが、少子高齢化や組織的問題もあるようだ。
ところが、暴走族の復活を彷彿させる報道を先日目にした。暴走行為を動画撮影してネットにアップロードする行為が全国的に起きている、というものだ。
暴走族は減少したが、社会の枠からはみ出したい「オレTSUEEEEEEEE!!!」な自己顕示欲旺盛なDQNは消えるわけではない。これまでもバカ発見器(別名インターネット)で生息が確認されてはきたわけだけど、そこで「スーパーマン動画」のような同時多発的現象を見ると、暴走族が絶滅の危機にあるというよりは、形態を変えて続いていると考えるのがしっくりくる。
つまり、現実世界に群れるのをやめ、ネットに「場」を遷したのだ。もちろんそのつながり方は従来型の暴走族とは異なる。しかし各地に分散する若者が仮想的に結び付いたと、あるいは共通体験を得た点で、現実横断的なビオトープが形成されたと言えるだろう。ネットがある種の若者の在り方を再定義し、生息空間を作ったわけだ。
暴走族2.0(と勝手に呼ぶ)が興味深いのは、ビオトープが単にネットの中に閉じておらず、現実世界に影響を与えている点だ。その意味ではオフ会なんかもそうだろう。仮想空間を通じて住むコミュニティが、現実世界の行動を左右する、というのは今や当たり前となった。
とは言え現実世界そのものは同じものを共有している我々だけど、テクノロジーが進めば、それすらも分断されるかもしれない。
仏教の「空」思想に基づき21世紀のテクノロジー社会を論じた『高校生からわかる〈web仏教〉入門』(2017)では、現実と虚構、生命と非生命といった区別に捉われることからの解放を説いている。本書によれば、世界のあらゆるものは「固定的で不変の実体」を欠いており、常にうつろい不確かだ。実際に種々の技術は世界の輪郭を変えはじめていて、現実がいつまでも同じ現実で在るとは限らない。
例えばAR/VR技術は、現実世界の日常をも浸食して「自分の見たい世界」に変えてしまうかもしれない。バイオ技術・ポストヒューマン技術は自分の姿をも、在りたい姿に変えるかもしれない。
その先にあるのは、現実をも巻き込んで高度に分断された世界だ。
「暗黒時代」の定義は種々あるが、狭義には、中世ヨーロッパの暗黒時代を説明する次の一文が参考になる。
ルネサンス期の見方では、古代ギリシア・古代ローマの偉大な文化が衰退し、蛮族(主にゲルマン人)の支配する停滞した時代とされていた。
ネットコミュニティがエコーチャンバーの機能を持ち、それが人々から科学の知見を失わせる、という仮説は冒頭で紹介した通りだ。ネットコミュニティはさらに社会を分断し、現実世界をも引き裂いていくかもしれない。人々はエコーチャンバーの中で信じたいものだけを信じ、真実は多義化され、幾重もの種類の正義が展開される。
「偉大な文化」としての科学が衰退し、自分と異なる真実をもつ他人(=蛮族)が跋扈する(ように各人が認識する)という意味では、ネットがもたらす未来は暗黒時代に当てはまる。あるいは、こうして科学が共通言語としての地位を失い、混乱をもたらすことは、バベルの塔の話にも似ている。
この混乱を他ならぬ科学が起こすというのは皮肉な話である。
でも話はこれで終わらない。来たる「分断」の時代、科学が失われる時代を「暗黒時代」と呼ぶにはわけがある。暗黒の時代は必ず晴れるからだ。では暗黒時代2.0の先には何があるのか。2つの可能性を考えてみる。
ルネッサンスは中世ヨーロッパの暗黒時代のあとに起こった。そこで発明された活版印刷技術は17世紀科学革命の遠因となる。印刷技術が科学の知見の伝搬を援け、「教会が見せたいものだけを見る世界」に風穴を開け、人々に新しい真実を共有させたわけだ。
暗黒時代2.0を終わらせるのも、活版印刷技術のような、「見たいものだけを見る世界」に分断された世界を統一し、価値観を共有させるものになるだろう。
脳と脳を直接繋ぐブレイン・ネットなんかはその候補かもしれない。
あるいは『機動戦士ガンダム』の富野由悠季監督は宇宙への進出が人類に「認知革命」を起こすとしており、それも有望株のひとつだ。
一方で、世界の再統一は起こらず科学の知見は失われたまま、でもそれでいい。という未来も考えうる。
17世紀科学革命が教会的世界観の絶対性を揺るがした、という話をしたが、権威に独占されていた「真実」が大衆に解放された点では、日本でも12世紀に革命が起きていた。前述の『高校生からわかる〈web仏教入門〉』では、これを「知の地殻変動」と呼ぶ。鎌倉時代初期、高度に学問的で聖域化されていた比叡山天台宗系の「エリート仏教」が、法然、道元、日蓮といった者たちに簡単化され、有効性を失った出来事だ。
本書によれば、エリート仏教に対して、鎌倉仏教は「最小限だれにでも実践できる簡単な「行」を一つ選び出し、あとは思い切って切り捨てた」。当時の価値観において仏教は最先端の学問である。これを管理する比叡山にしてみれば、簡単化された鎌倉仏教の大衆への伝搬は「学問の知見が失われる」事態に他ならない。
これって、「科学の知見が失われ」ようとしている現在と似てはいないか。
既得権益は、社会に新しい価値観が出現すると批判する。でもそれは後世からみれば一方的な物の見方に過ぎない。
我々は現代において「科学」という信仰に帰依するが、「科学」も実は普遍的なものではなくて、次の時代の価値観に絶対者の座を明け渡すときが来たんじゃないか。かつて科学が「宗教」からその座を奪ったように。
つまり暗黒時代2.0のあとに来るルネッサンスは、科学の「次の価値観」が絶対者となる時代にある。暗黒時代2.0とは、絶対的価値観が「科学」から「その次」に遷る過渡期なのだ。
では、科学の次の価値観とは何だろう。
振り返ってみると、宗教も科学も共通の役割を担ってきた。社会を統合するという役割だ。すると科学の次に来る価値観もまた、分断した社会をひとつに結び付けるものになるだろう。
かつて絶対者だった宗教は、いまは一部の信仰に留まっている。暗黒時代2.0の世界では、科学もまた一握りの人にだけ担われる。そしてそれ以外の人々は科学の知見を失い、それぞれが主観で捉える世界に生きていく。
それは他人からすれば虚構かもしれないが、その時代においては、世界の何が現実で何が虚構であるのか、意味を持たなくなっている。分断された世界で、真実とは多様な価値観の1つに過ぎない。
むしろ虚構を肯定すること、世界が幾重もの主観の積み重ねから成る多元的現実であると許容すること、それが次の時代に求められる価値観かもしれない。この価値観が、分断した世界で共有される科学の次の絶対者となる。