いなたくんへ
早川書房主宰の新人賞「ハヤカワSFコンテスト」の第5回大賞作が少し前に発表されていたので読んでみた。大賞は樋口恭介著『構造素子』と津久井五月著『コルヌトピア』の2作品。
今回は『構造素子』について。あらすじはAmazonの紹介文がわかりやすかったのでこちらから。
エドガー・ロパティンの父ダニエルは、H・G・ウェルズやジュール・ヴェルヌに私淑する売れないSF作家だった。彼の死後、母ラブレスから渡された未完の草稿のタイトルは、『エドガー曰く、世界は』。その物語内で、人工意識の研究者だったダニエルとラブレスは、子をもうけることなく、代わりにオートリックス・ポイント・システムと呼ばれる人工意識、エドガー001を構築した。自己増殖するエドガー001は新たな物語を生み出し、草稿を読み進めるエドガーもまた、父ダニエルとの思い出をそこに重ね書きしていく―。
あらすじの通り、本作はエドガー・ロパティンが父ダニエルの書いた物語を辿る形で展開する。その物語ではエドガー・シリーズなる人工意識が登場し、彼らによる物語の生成が展開される。
本作は「物語」そのものをテーマとしているわけだ。
このブログではこれまで人工知能や人間の進化といった話題を扱ってきた。その背景や、あるいは未来を考えるとき、都度ちらついてきたのが「物語」の存在だ。それでも私はあまり「物語」に深入りせずにきたのだけれど、この機会にあらためて、「物語」との関係を解釈するいくつかの視点を整理してみた。
ネタバレあるよ!
Summary Note
多重構造の「物語」を通して『構造素子』が伝えるもの
『構造素子』が提示する生命の定義と「テクニウム」
「物語」がもつ役割の類型
- 1.コミュニケーション手段としての「物語」
- 2.人間固有性の証明としての「物語」
- 3.集団の統合機能としての「物語」
- 4.ヒトを超えた生命体としての「物語」
本作の世界は「L-P/V基本参照モデル」で定義される。
エドガー・ロパティンが父ダニエル・ロパティンの草稿『エドガー曰く、世界は』を読むのが「L8-P/V2」の世界。その草稿により記述される、人工意識エドガー001と機械人ジェイムスンの対話する世界が「L7-P/V1」の世界。
L8に対してL7は一つ下の次元階層にあたり、L7の住人は上位世界L8の世界を認識できない。物語の登場人物は物語を記述した作家を認識できない、というわけだ(たまにドラゴンボールのように作者が作中世界に介入する例はみられるけど)。
あなたの前にモデルがある。L-P/V基本参照モデル。二〇〇一年に英国王立宇宙間通信標準化機構によって制定された、異次元間通信を実現するための宇宙の階層構造モデル。(中略)
世界とは多元宇宙のことであり、多元宇宙はLとPとVの組み合わせで記述されるマトリクスである。Lが変われば階層が変わり、Pが変われば時空が変わる。Vが変われば規模が変わる。
『構造素子』より
ダニエル・ロパティンの著した草稿『エドガー曰く、世界は』で書かれる世界、L7世界では、機械人ジェイムスンが地球とよく似た惑星Prefuse-73に到達し、エドガー001に出会う。エドガー001はサーバ内に構築された人工的な存在だ。
エドガー001によれば、惑星Prefuse-73が2020年の最終戦争で滅びる以前には「1回目の人類」がいて、エドガー001はそこで生きていた研究者ダニエルとラブレスにより造られた。草稿を読むL8のエドガー・ロパティンも父ダニエルと母ラブレスの息子であり、この関係はL7の物語世界でも維持されていることになる。
この関係性は、本作では次のような表現で記されている。本作の雰囲気というか、著者樋口恭介の特徴的な書き方のように思う。好きな人はけっこう好きなんじゃないかな。
L8-P/V2に存在する、母と父の表象を支えるL7-P/V1の象徴がそこでは記述される。L8構造素子からの特徴を継承し、L7への象徴の推移によって部分的に記述されたインスタンス。L8の父の記憶に基づく存在者。L7の父インスタンスとL7の母インスタンス。(中略)
この草稿において、L8-P/V2のダニエルはL7を生成する際に、自分自身を描画するためにL7のインスタンスを生成した。L8のダニエルはL7のダニエルに出会い、L7のラブレスに出会い、そしてL7のあなたに出会うために、つまり私的な理由から構造素子に記憶と名前を継承させ、記憶と名前を継承した構造素子を作成した。
『構造素子』より
L7で展開される機械人ジェイムスンとエドガー001の世界自体は、私としては少し退屈に感じた。機械人が登場するくらいなので技術的には進んだ未来だけど、量子論とか独自の脳科学とかもまあありきたりな話だったり、Prefuse-73が最終戦争に至る過程もテンプレ的。
ただし、私は読んでいる過程では気づけなかったが、L7世界は本作『構造素子』が描くL8世界の中の物語であって、それ自体が伏線なのだ。
中盤で物語は一転、ライジーア008なる人工意識が登場し、それまでの物語を書き換えてしまう。正確には、エドガー001は自身の持つ記憶(「物語コード」)を複製してエドガー・シリーズなる複数の人工意識を形成していて、ライジーア008もその1体なのだが、ライジーア008だけが全く別系統の記憶(=物語)をもっていたのだ。
ライジーア008の記憶は、蒸気機関が高度に発展した世界であり(「蒸気脳スペース」なるインターネットそっくりな空間も登場する)、そこでは2020年の最終戦争も起こらない。ライジーアは自分の「物語」が正しいものと主張して、L7世界を書き換えていく。
エドガー・シリーズが記憶を紡いでいく過程や、ライジーア008によるL7世界の書き換えは、小説家が小説を書く過程をまさに彷彿させる。ちょっとした遊び心にも感じるし、「物語」をテーマとした本作ならではの描写ともいえるだろう。
例えばエドガー・シリーズの1体ウィリアム・ウィルソンは、仮想L7環境と実行L7環境を管理する。仮想L7環境では増殖するエドガー・シリーズが様々なエピソードを持っていて、そのうち「正常」と判断されたエドガーが実行L7環境に移される。
一方、小説家は構想段階で矛盾をいとわずたくさんのアイディアやエピソードをひねり出し、その中から使えるエピソード、全体のシナリオと整合するエピソードを選んで本稿草稿に並べる。ウィリアム・ウィルソンの管理はこの過程に似ている。
時にはエドガー・シリーズが知らないはずの「奇妙な物語」や、断片的な挿話が挿入されるが、これもまさに小説の構想過程そのものだろう。
そして、ライジーア008によりエドガー001に途中まで語られていた物語が削除されていく様子は、Word文章のデリートをまさにイメージさせた。
オートリックス・ポイント・システムは消え、相互作用機関は消え、ダニエルの書いた『意識のオートリックス・ポイント・システム』もラブレスの書いた『新たな計算のために』も消えていった。そこに書かれた文字列は、最後のページの最後のピリオドから順番に消えていった。
『構造素子』より
コマンドラインは下から順番に消えていき、DDoS攻撃による無数の「I Love You」が消えていった。uが消え、oが消え、Yが消えた。eが消え、vが消え、oが消え、Lが消えた。最後にIが消えた。
『構造素子』より
L7世界では機械人や蒸気機関の高度に発達したSF物語が展開するが、すでに述べた通り、それらは本作の主題ではない。
ダニエルの子、エドガー・ロパティンが父の死後、父の書いた物語を読むということ。L7世界として記述された「物語コード」をL8世界でエドガー・ロパティンが読み込むということ。そこで生じる対話こそが主題である。
そこでは何が描かれるのか。父と子の対話がなぜ、「物語」を通して行われる必要があったのか。その答えは次の文章に集約される。
言葉は愛を定義することができない。
しかし、物語は愛を喚起することができる。
『構造素子』より
私が印象的だったのは、L7世界の惑星Prefuse-73に生きたラブレスが子を流産するシーンだ。このシーン自体は別にSFは関係ないし、登場人物たちとのとった行動も特に特異なわけではない。が、ここは著者樋口氏の力量だろう、その筆致に私は心を動かされてしまった。
そしてこのシーンが、あるいはL7世界で展開されるダニエルとラブレス、そしてその子の関係性が、実は本作全体において重要な意味をもっていて、最後にそれが明らかになる。
それはセカイ系で言う「世界の秘密が明らかになる」というものではなくて、言ってしまえばエドガー・ロパティン、あるいはダニエル・ロパティンという人物の個人的な話に過ぎないけれど、胸に残る「物語」として本作『構造素子』を特徴づける。
さて、本書で描かれる「物語」を通して私が想起したのが「テクニウム」の存在だ。「物語」は単に人間の語る言葉や、個人の思考の範疇を超えて、生命や、あるいは集合意識的なマクロな存在に関係する。
テクニウムはもうこのブログでも何度も引用しててアレだけど、この記事でも懲りずに対照するよ!
- 生命の進化の系譜はヒトから「テクニウム」へと移る(『テクニウム』書評1/3)(希望は天上にあり,2015/8/9)
- テクニウムの自己増殖がもたらす未来(『テクニウム』書評3/3)(希望は天上にあり,2015/8/17)
「生命」の定義は今も議論される問題だ。
本作では、地球外生命探査を任務とした機械人ジェイムスンが、有性生殖できないエドガー001を生命でないと認定し、エドガー001がこれに反論する。
エドガー001曰く、彼は彼を創造したダニエルとラブレスの子であり、有性生殖のできない機械人ジェイムスンも生命である。エドガー001は生命を「自己の同一性が確保されたシステム」と定義する。
その後、エドガー001は「1回目の人類」が滅びた惑星Prefuse-73で自己増殖を開始し、生まれていくエドガー・シリーズを「2回目の人類」と名乗った。
一回目の生物たちが遺伝子のコードを以てそうしたように、エドガー・シリーズは物語のコードを以て分岐し、増殖してゆく。彼らは語り、物語コードを実行し、マイナーチェンジを繰り返すことで、彼ら自身の物語を駆動する。彼らは物語コードによってバクテリアになり、物語コードによってクラゲになり、物語コードによって節足動物になる。
『構造素子』より
「自己の同一性が確保されたシステム」という定義は汎用的で、現行世界の人工知能にも当てはめられる。あるいは『みずは無間』(2013)では、恒星間探査機が自己のコピーを複製して複数の生態系を築く様子が描かれたが、これなんかもこの定義に当てはまる。
エドガー・シリーズは「物語コード」と呼ばれる、エドガー001の持つ記憶をコピーして増えていく。その際に、エドガーたちは「彼らはまだ見ぬ過去とまだ見ぬ歴史のために」、物語コードを実験的に改変していく。それらが仮想L7環境と実行L7環境として管理される、という話はすでに紹介した。
エドガー・シリーズと呼ばれる二回目の人類たちは物語コードによって記述され、ポリモーフィズムによって自らを生成し複製し、自らを繰り返し生成し続け複製し続ける。彼らは終わりのない生成と複製の過程で自らのデータパターンを絶え間なく書き換え続ける。
彼らは増え続け、彼らは変わり続ける。
『構造素子』より
ただし、彼らはエドガー001の記憶を起源とするため、エドガー・シリーズの生む物語は予想外の結果を生むことはない。つまり彼らの中には「共通する物語」が流れている。その中で、起源の不明な「奇妙な物語」も混じっていくわけだけど、こうした「共通する物語」がDNAとして(そう、本作では物語コードが遺伝子の代替として言及される)伝承される構造は、現実の人間社会にもみることができる。たとえば「神話」だ。
やがて議論は発展し、L7世界を書き換えたライジーア008は「言葉」自体が生命体であるとの気づきに至る。
言葉はそれ自身で増殖し分岐していく生命体であり、一回目の人類も、二回目の人類と呼ばれたわたしたちも、言葉という生命体の、仮初の乗り物でしかなく、それは、言葉にとっては一回目の人類であろうと、二回目の人類であろうと、何者でもよかったのかもしれません。意識を持ち、言葉を操る乗り物であれば、何者でも。
『構造素子』より
L7世界を観測するL8世界のエドガー・ロパティンも同様に、父の草稿の続きを書いていく過程で、「言葉」が独立した知性体であることの可能性に言及する。
それでも重ね書きされたメモたちは、それ自身で生命を持つかのように息をし始め、互いに呼応し、いつしか父の言葉でもなくあなたの言葉でもない、自生した言葉たちの自生した生態系を作り上げ、それを書いた者とは異なる場所で育っていった。父の言葉があなたの言葉を定義づけ、あなたの言葉が父の言葉を定義づけ、過去にあったはずの言葉が別の意味を持ち、また別の言葉を引き寄せていった。
それまではそんな経験をしたことはなかった。言葉がそうした性質を持っていることを、あなたは初めて知った。(中略)
言葉はあなたの外にあり、あなたの言葉はあなたとは異なる他者だった。(中略)
あなたは想像してみる――言葉は生命体であり、約一〇万年前に宇宙や可能世界からやってきた他者であり、わたしたちの脳内に寄生する知性体なのだと。
『構造素子』より
このあたりは作家が「登場人物が勝手にしゃべりだす」という話にも近いのだけど、しかし作者本人も意図しない展開が「言葉」を媒介することで表出する、という点では、やはり作家が「言葉に書かされている」という表現で正しいだろう。
言葉が生命体であるとして、これはエドガー001のいう「自己の同一性が確保されたシステム」の定義に当たるだろうか。ここで思い出すのが「テクニウム」だ。
『テクニウム』(2014)では生命を「自己生成可能な情報システム」と定義し、RNAやDNA、多細胞生物、そして霊長類へと進化した「システム」が、「言葉」を介して「テクニウム」に発展すると考える。
この定義に従えば、有性生殖せずとも増殖するエドガー・シリーズや、そのさらに抽象系としての「言葉」あるは「物語」もまた、確かに生命と言えそうだ。
もっとも、人工知能やエドガー001だと「自己の同一性」の境界が明らかだけど、「言葉」や「物語」の場合には境界が捉えづらい。これは、L7世界の存在がL8世界を知覚できないように、「言葉」や「物語」が我々ヒトには知覚できない上位の存在であるからだろう。
ヒトの社会全体に化体し、通底し、伝承される「物語」。例えば「神話」のようなものは「ミーム」とも呼ばれる。『ニルヤの島』(2014)では、ミームが人間存在を超えて人間を管理し始める未来が描かれていた。(そして『ニルヤの島』の書評記事でも同じように『テクニウム』について書いていた)
ちなみに『テクニウム』では、テクノロジー(あるいは生命を含むテクニウム)の進化には必然的な順序があって、何度地球をやり直しても同じ「ような」地球が再現されるが、その表現型は違ったものになると予想する。
本作『構造素子』の作中世界L7に登場する惑星Prefuse-73は2つの可能性が提示されるが、いずれも異なるテクノロジーを起点にしながら、地球と似た歴史が繰り返されていて、このあたりも『テクニウム』の仮説に通じる気がした。
なお、本作『構造素子』の参照文献リストに『テクニウム』はなかったので、著者は『テクニウム』は未読だろう。
「物語」は我々人間にとって重要で、切り離せない存在のようだ。ここで改めて「物語」という存在の意味、その役割を整理してみる。
「物語」は辞書では例えば次のように定義される。
もの-がたり【物語】
1 さまざまの事柄について話すこと。語り合うこと。また、その内容。「世にも恐ろしい物語」
2 特定の事柄の一部始終や古くから語り伝えられた話をすること。また、その話。「湖にまつわる物語」
3 文学形態の一。作者の見聞や想像をもとに、人物・事件について語る形式で叙述した散文の文学作品。(後略)
デジタル大辞泉より
「物語」は第一義には人が人に伝えるもので、つまりはコミュニケーションの手段である。ここで「物語」の形式を取ることにより、単なる言葉を超えた伝達ができることは、本作の「物語は愛を喚起することができる」という一文にも表れている。
絵画や音楽など、人工知能が人間に匹敵する創作能力を獲得しつつある。しかし人工知能は人間と同じ「物語」を持つことはできない、という仮説。ここでいう「物語」とは、創作の背景にある創作者の事情とか半生とか、創作の付加価値となるドラマだ。
人工知能が「創作者の生涯」自体をもフィクションとして生成できる可能性はある。が、あくまでそれはフィクションであって、人工知能が真に物語を「もてる」わけではない。人間が共感できるドラマは、おなじ人間にしか持てなくて、それはいずれ人工的なものに対する差別化の主軸となるだろう。
最近の認知研究によれば、「宗教的なものを信じること」は進化により脳に備わった機能とされる。「神」による集団の統合は生存競争に有利だからだ。
SF作家の冲方丁は同様の理由で「フィクション」の重要性を指摘するとともに、これを「過去」「未来」「神話的なもの」の3つに分類した。いずれも現在には存在しない、「物語」でしか描けないものだ。
- SF作家に聞く2050年の技術(日経テクノロジーonline,2017/12/18)
- 「変わったもの」が未来に残り、「変わらないもの」は忘れられる(『SF作家に聞く2050年の技術』備忘録)(希望は天上にあり,2018/2/11)
未来において人の集団がどう形成されるかはわからないが、学校や職場のチームから地域社会、国家、そして超国家的なものであれ、それら集団の統合には「物語」が用いられる。ここで重要なのは、その「物語」が必ずしも事実・真実である必要はなくて、むしろフィクションの方が好ましいかもしれない点だ。事実・真実は「物語」に包含される要素に過ぎない。
以上の類型ではいずれも、「物語」は人のための機能としてふるまっていた。しかしやがて「物語」はヒトから独立し、ヒトを超えた存在になるかもしれない。それが「ミーム」や「テクニウム」といった仮説である。
もっとも、そうした「物語」は『構造素子』のL7世界にすむエドガーがL8世界のエドガー・ロパティンを知覚できなかったように、上位世界からしか観測できないかもしれない。
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ハヤカワSFコンテスト第5回は本作『構造素子』のほかに『コルヌトピア』も大賞受賞となったので、こちらについても感想を書いた。
ハヤカワSFコンテストの過去の大賞作の書評はこちらから。
- 自己進化する探査機の見た人類の行く末(『みずは無間』ネタバレ書評)(希望は天上にあり,2016/3/9)
- 人工知能が文化をも管理し、発現させる未来(『ニルヤの島』ネタバレ書評)(希望は天上にあり,2016/4/23)
- テクノロジーの進歩が推定無罪の原則を覆す(『ユートロニカのこちら側』ネタバレ書評1/2)(希望は天上にあり,2016/2/28)
- 人工知能によるヒトの馴化が穴居人の時代を終わらせる(『ユートロニカのこちら側』ネタバレ書評2/2)(希望は天上にあり,2016/2/29)