『イミテーション・ゲーム』と思考するチューリング・マシン

ホーキング博士の半生を描いた『博士と彼女のセオリー』に続いて、映画の感想をもう1つ。コンピュータの父アラン・チューリングによるエニグマ解読を描いた『イミテーション・ゲーム』だ。「暗号」と「コンテクスト」、「チューリング・テスト」や「チューリング・マシン」。チューリングにまつわる様々なモチーフが効果的に使われている映画だった。
ネタバレではないけど、ストーリーのヒントにもちょこっと触れます。

The Imitation Game イミテーション・ゲーム 英語音声英語字幕のみ[PAL-UK版]

アラン・チューリングは英国の数学者で、コンピュータの父とされる。『イミテーション・ゲーム』では、彼が機械を使うことでドイツ軍の暗号機エニグマと格闘し、ついにこれを破った功績を描く。

なおエニグマ解読は英国で最高機密とされた。チューリングの功績は、彼が同性愛の罪でホルモン剤投与を強制され、のちに自殺した後、1974年にようやく公のものとされている。このあたりの事情はWikipediaで楽しく読めるので、21世紀は素晴らしい。

 

日常生活でも暗号を交わす人々

ストーリーの筋の1つが「暗号の解読」である。ここで、「機械によるエニグマの解読」を表のモチーフと考えたとき、裏のモチーフとして描かれていたのが「人間が生活の中で交わしている暗号」だった。

チューリングは「空気」が読めない

奇人として描かれるチューリングは、冗談を理解することができない。人が感情を交わして、言葉を超えた意思を伝えあうことを理解できない。現代風に言えば「空気」が読めない。

人間はいわゆる「コンテクスト」を用いて、言葉に表さずに真意を伝えることができる。この真意は、言葉と逆の意味を持つことさえある。これがわからないチューリングは、少年期にはいじめに遭い、エニグマ解読プロジェクトでも人間関係の困難を味わう。

物語の作りとして面白かったのは、裏のモチーフである「コンテクスト」が、表のモチーフである「エニグマの解読」に対して重要なカギとして機能していた点だ。

Bombe Machine, Bletchley Park
Bombe Machine, Bletchley Park / mendhak

物語の仕掛けとしての「コンテクスト」

少年期の親友との関わり、プロジェクトの仲間たちとのやりとり、妻となるジョーン、酒場で女性を口説く仲間、、情報機関MI-6の戦略。あらゆるところで「コンテクスト」の存在が描かれていた。

どれも象徴的に書かれているけど、描写としては少年期の親友との日々が特におもしろかったかなあ。少年期の体験がどうチューリングを形作ったか、これを物語るとともに、チューリングが「コンテクスト」を読めないこと、「普通ではない」ことをしっかりまとめている。
本作は大戦期を中心として、少年期と戦後の話がところどころ挿入される。時系列を頻繁に飛ばすのは良くないとされるけど、少年期及び戦後ともに、チューリングを立体的に描くことに成功していた。また、戦後のエピソードだけでなく、少年期の話も小さな伏線になっていて面白かった。

さて、若干ネタバレになってしまうけれども、この「コンテクスト」が、「暗号化されているはずのドイツ軍同士の交信を読み取れる女性」の登場により、エニグマ解読における突破口となる。

「暗号解読」のアナロジーとして、人間同士で交わす空気の読み合いも暗号みたいなもんだよね、という話を描き、それが本筋のカギとなるのは、物語の作りとして美しい。
そしてこの仕掛けは、空気の読めない(暗号がわからない)異質な人間であるチューリングを物語の中心に置くことで、より効果を発揮していたように思われる。

Sola en la calle - Alone in the street
Sola en la calle – Alone in the street / Dani_vr

チューリング・テストとチューリング・マシン

「コンピュータ」は元々、研究機関などで計算を担当する、「計算手」と呼ばれる職業を指していたそうだ。チューリングは物語の中で、エニグマに勝てるのは機械だけであると主張し、これを「デジタル・コンピュータ」と呼ぶ。彼がこのセリフでイメージしたものは、現代のコンピュータではなく、「計算手の人々を機械化したもの」であろう。

物語の中で、チューリングは取り調べを行う刑事に対し、有名なチューリング・テストを持ち出す。質問と回答を繰り返し、回答者が人間であるか機械であるかを判別する、というものだ。

チューリング・テストの目的は本来、機械が十分に知的であるかを測ることだ。現在も人工知能の性能を図る指標とされる。
空気の読めない、そして同性愛者として告発される社会的異質者のチューリングは、チューリング・テストの回答者として「私は人間であるか?」と問う。暗号解読が物語のモチーフであるとして、物語のテーマは、「普通ではないもの」の生き様を描くことであった。

チューリング・マシンは思考できるか

モンスターと呼ばれ、「普通でないもの」としての自分に苦悩したチューリングは、物語では人間と機械の間に位置した。自らに仕掛けさせたチューリング・テストでチューリングは、「機械は人間と同じように思考できるか」という問いに対して、否と答える。

「機械は人間と同じようには考えない。彼らの思考は人間とは違ったものになるだろう」。

人間同士(つまり自分と他の人々)ですら同じように考えることができないのだから、機械が同じように考えるとは限らない。ただし、機械の思考能力の獲得は否定していない。
チューリングの提唱したチューリング・マシンはいま、どこまで進化しているだろうか。

-[ p8nderInG exIstence ]-
-[ p8nderInG exIstence ]- / JD Hancock

我々が「心」を持つと、機械にどう説明するか

機械によるチューリング・テストの突破は、チューリングの死から60年を待たねばならない。2014年に人工知能「ユージーン」が初めて、チューリング・テストを突破したとされる。ただし論争もある。

人工知能の開発は、ディープ・ラーニングなど種々のアプローチで進められている。これについては下記記事にもまとめた。順調に性能を上げてきているようである。

物理学者のミチオ・カクは、人間の心と意識を探る著書『フューチャー・オブ・マインド』で、未だに人工知能の意識は昆虫レベルであり、自己意識をもつのは今世紀末まで待たねばならない、と予測している。

ただし、人工知能が「心」を獲得する未来自体は肯定しており、その「心」が一体どのようなものになるのか、思考実験を行っている。答えは本作でチューリングが述べたのと同様に、我々とは異なるものになるかもしれない、というものだ。
というよりも、機械の心が本物の心か区別できないほどに発達すれば、それが本物であるかどうかは問題ではなくなる。むしろ機械の方が、「人間こそ本当に心を持っているのか?」と疑問をぶつけるかもしれない。その問いに対して、我々は有効な反論ができない。「心」が一体何であるのか、客観的な定義ができていないからだ。

「普通であること」もまた同様である。何をもって普通とし、何をもって「普通でないもの」とするのか、その境界はどこにあるのか。
機械が心を持てるかどうか。それは、心を持つ機械を作ってみなければわからない。心を持つ機械が生まれたとき、心の定義も大きく変わり、「普通ではないもの」の境界もまた変わっていくことになるだろう。

 

エニグマ アラン・チューリング伝 上 フューチャー・オブ・マインド―心の未来を科学する 東大准教授に教わる「人工知能って、そんなことまでできるんですか?」

 

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