自己進化する探査機の見た人類の行く末(『みずは無間』ネタバレ書評)

いなたくんへ

透って理屈っぽいとこあるよね。どうしてわかってくれないのかな。
えー? なんでもいい。
やだ、遠すぎるよ。今日パンプスだし、歩けない。
ええー、ラーメン? 嫌じゃないけどちょっと……。気分じゃないっていうか……ダイエット中だし……。

ふてくされたみずはをどうにかなだめすかして歩かせるのは至難の業だった。

うわっ、めんどくせえ!

と、思ったかな。でも男性と女性は違う生き物だし、男からみてめんどくさくても、女には女なりの理由があるのかもしれない。

数回のコールのあと、観念したように切れるが、一分とたたずにかかってくる。その繰り返しは十回程度で済むが、折り返し電話をしてきなさいという趣旨のメッセージが留守電に十数回吹き込まれ、さらにメールの連投が続く。だから電話はすぐに出たほうがいい。

うーんでもやっぱりこのレベルになると「ヤベェ!」って感じがするね。逃げたほうがよさそう。ハヤカワSFコンテスト第1回受賞作『みずは無間』(2013)では全編通して、みずはから逃げた主人公の、重かった彼女との思い出が語られる。語られるというか、脈絡なく本文に昔話が滑り込んできて主人公の思考が乗っ取られる感じ。

みずは無間

前回紹介した第3回受賞作『ユートロニカのこちら側』(2015)では、書籍の最後に「受賞作が突出していたというわけでもない。全体的に小粒だったという印象だ」という辛口の選評が載せられていた。じゃあそれまでの作品はどうかというと、第1回受賞の本作『みずは無間』は確かに、選評者のいう「スケールの大きい、ハチャメチャで驚きに満ちたSFらしいSF」だった。とてもおもしろかったので、今回は本作について紹介したい。ネタバレを含むよ!

 

みずはの記憶を抱え自己進化する主人公

重い女の思い出話が何でSFになるのか。主人公が探査機なのだ。
本作の冒頭は、探査機である主人公が太陽系を脱し、パイオニア10号を見つけるところから始まる。1977年に打ち上げられたボイジャー1号は、それから36年経過した2013年に太陽系を脱した。パイオニア10号はボイジャー以前の打ち上げながら、別の航路を飛行しており、これが太陽系を脱するころ主人公に出会うわけだ。

主人公である探査機が備える人格(というよりも「人格」というソフトウェアが主人公で、それが探査機というハードウェアに載ってると言うべき)は、人間の人格をコピーしたAIだ。主人公は当然ながら人間時代からの記憶を引き継いでおり、その中にみずはとの思い出も含まれている。

太陽系を脱した主人公は宇宙の暗闇を飛んでいく。太陽系の外に何があるのか、主人公は何と出会うのか、地球に残した自分はどうなったのか。そうした興味は尽きないが、イベントのたびに地球時代のみずはの記憶が回想されて、未練がましくウェットで女々しい主人公のモラトリアムにつき合わされる。欲望のままに生きて、常に何かに飢えていて、わがままで。

もっともこれらの回想は、何千年何万年と旅する主人公の記憶領域から繰り返し再生され、反芻された結果である。主人公も気付かぬうちに記憶が自己改変されている可能性もないではない。地球にいたみずはを客観的に評価したらどうかというと、本作で描かれる彼女とは違った人だったのかもしれない。しかし本作はあくまで無限の宇宙を旅する主人公1人の物語であるから、遠い地球で過去に起きた真実に意味はない。

自己進化する探査機

主人公の旅は長い。主人公は手ごろな小惑星に着陸したり、惑星間物質を吸収しながら、ハード、ソフトともに自らの姿を改変していく。量子チューリングマシンを構築し、非ノイマン型のOSにして自身のコピーを移し変え、探査機の構成物質もナノ粒子に置き換えたりして、どんどんバージョンアップしていく。その作業は非生命体(※)ならではの時間感覚で行われ、ページをめくったら百年経過していることも珍しくない。時にその大きさは数AU(天文単位;1AUは地球・太陽間の平均距離)にも達する。

※私は主人公を生命だと考えるけど、主人公自身が「生命の定義に照らし合わせれば確実に生命体ではない俺」と言っていたので、ここでは非生命とする。

物理学者のミチオ・カクは著書『2100年の科学ライフ』(2012)で、遠い未来(2100年)の技術として「ナノシップ」を紹介している。小型化された無数の探査機が宇宙にばら撒かれ、それぞれは適当な衛星にたどりついたら工場を建て、自らのコピーを作り、さらに拡散するというものだ。こうすると倍々ゲームで増えていくので、広大な宇宙を探査できる。

本作『みずは無間』の主人公もまさにこれだ。自己進化し、自己複製する探査機であり、実際に自分のコピーを作って宇宙にばら撒いている。みずはの記憶とともに。

Magnetospheric Multiscale (MMS)
NASA Goddard Photo and Video

情報生命「D」

本作のキーワードは「飢餓感」だ。主人公を求め続けたみずはの飢餓が、呪いのように宇宙に満ちていく。そこで主人公が作ったのは、飢えを知らない情報生命「D」だ。主人公の計算リソースの中で、「自他の境界を有する」「自己複製する」「代謝を行う」の3機能を有し、一定確率で遺伝子データを変異させながら情報を糧に成長する人工生物である。こうした実験自体は現実でも行われている。

主人公は数度の失敗を繰り返しながらDを育て、その増殖や自我の獲得、社会の形成にあわせて、データベースを順次開放していく。やがてDがその創造主たる主人公の存在に気付き、呼びかけるくだりは、『火の鳥・未来編』のナメクジ文明を髣髴させておもしろかった。
主人公は彼らの要求に応じ、探査機の計算リソースから外に出し、自分とは別個の肉体(機体)を与えて、宇宙に解き放つ。

と、ここまでが第1章の話。つまり序章で、このあと矢継ぎ早にストーリーが展開して、地球に残したみずはのその後、自分のその後、人類の未来といった、様々な謎が明かされていく。SFアイディアに満ちながらも軽快なテンポで、そして「みずは」という芯が一本通った、読み応えのある一冊だった。ぜひおススメしたい。

 

コネクトーム化した人類のその後(ネタバレ)

さて、長々と本作序章を紹介したけど、本作を読んでて気になる「謎」のひとつが人類の行く末だ。これについてネタバレしたい。冒頭で太陽系を抜け、悠久の時間を過ごす主人公であるが、人類もまた地球圏を脱して宇宙に進出していた。

人類は俺たち〈移植派〉が広がる速度に匹敵するかそれ以上のスピードで急速にテリトリーを広げつつあった。そのなかにはゆっくりとだが確実な足取りで進むグループもあれば、いい意味でも悪い意味でも人類らしさにこだわるあまり極度の引きこもりに転じたグループもあれば、競争相手のいないかけっこに興じているグループもある。

『みずは無間』より

本作が描く人類の未来はいかなるものか、みてみよう。

ヒトが1ゼタバイトのコネクトームになる未来

前出のミチオ・カクは『フューチャー・オブ・マインド』(2015)で、人の持つ「心」の正体とは何か、そしてそれがどこに向かうのかを論じている。これによれば、ヒトのもつ心は「過去を評価して未来をシミュレートする」機能を担っており、それは脳により駆動される。そして脳が抱える1ゼタバイトの記憶と人格(アルゴリズム)は、いずれ肉体の外に移すことが可能になる。その情報体を「コネクトーム」と呼ぶ。情報化されたヒトの「心」だ。

コネクトームは例えばレーザーを介して星と星の間を旅したり、あるいは複数の意識が集合するブレインネットを形成する。それ自体はありえる未来として理解できるんだけど、『フューチャー・オブ・マインド』を読んだときには、そこまで進化した人類の姿が風景としてどうしてもイメージできなかった。全人類の意識が1つのサーバーに集められたら?それは眠っているような状態になるのだろうか。そのとき地球に広がる景色は一体どんなものなのか。

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screened / new 1lluminati

宇宙に出た人類はいくつもの可能性を手に入れていた

人類の未来は本作『みずは無間』のテーマではない。したがってさらりと触れるに留まってはいたものの、進化した未来の人類は風景として描かれており、私にとっては大いに参考になるものだった。記載を抜粋しよう。

あくまでも伝統的なウェットウェアのまま遺伝学的に不自然でない一生を送る者、薬学的遺伝学的ナノレベル解剖学的な魔改造の末に理論的には不死を勝ちえたと思っている者、同様の慢心を持つ機械仕掛け主義者、物理的身体を捨て去ったアップロードたち、アップロードを際限なくコピーして次々に培養ウェットウェアやマシンウェアにダウンロードする転生ジャンキー。多様化、系統分岐、相互干渉、拡張、そして分散。いかにテクノロジーが生命の形とその母星を変えてしまっても、地球生命の本質はなんら変わらない。

『みずは無間』より

人格と記憶と疑似シナプスのコード集合体となった四〇億人が、電磁波とルーターが織りなすグリッドの巣に暮らしている。

『みずは無間』より

バクテリア時代から丹念に練り上げてきた四種類の塩基からなる配列も、そのフェノムおよびプロテオムも、固有タグ付けのうえバイナリ化されつくしている。恋におちたふたりの全固有コードをランダムに配合するという偶然性を繁殖過程に取り入れているので、そしてその際に恣意的な介入を完全に排除しているので、極めて『自然』な多様化戦略を取っているといえる。一方で塩基コード以外ならなんでも、成人後の自己改変に制限はなく、環境の変化(あるいは心境の変化)に柔軟に対応できる。ガチガチの原理主義者と曲乗り同然の進歩主義者のあいだを取った、というか、いいとこ取りをした形だ。(中略)

個体差なるものは『Aを選ぶ/選ばない』分岐の蓄積にすぎないことと、ひとつ前の選択が次の選択に与える影響とその道筋、ランダムなプロセスの結果論に集約される。

『みずは無間』より

つまらない岩石に擬態した昆虫テイストの無機質ボディが連中の自我の収納場所だ。どこからでも目立つ二足歩行型哺乳類の有機物ボディを捨てていた。もちろん由緒正しい遺伝子コードは使うものではなく、データベースに格納しておくべきものだった。実際、連中は自分たちをポスト人類だといった。

『みずは無間』より

飲み込まれていた俺の数は二〇体以上、そのそれぞれの記憶がねっとりと渦巻いている。人類の系統も数え切れない。遺伝子操作に活路を見いだした人類。巨大データベースにアップロードした人類。魚類への回帰を選んだ人類。

『みずは無間』より

まとめるなら「多様性」という言葉が良いだろうか。コネクトーム化以外の選択をした末裔も含めて、ヒトは宇宙に広がりさらに多様に進化した。このブログでは、ヒトの次世代は人工知能が担うのか、それともハイブリッド化したヒトであるポストヒューマンが担うのか、という議論をしたことがあるが、その両者が共存していてかまわないのだ。人類の未来はひとつではない。この景色を紹介したくて、あるいは書き留めておきたくて、今回この記事を書いた。

ブレインネットも個性を手にする

なお、可能性のひとつとしてのブレインネットの姿を考えるなら、情報生命「D」の描写が参考になるかもしれない。Dはいくつかもの派に分かれて進化したが、いずれも集合知としての意識を獲得している。例えばコペンハーゲン解釈的に自分を設計したと主張する「デコヒーレンス派」のDは、自我を失った個体の集合であるが、自我を失ったというよりは自我が量子的に重なった状態であると表現される。

Dは集合としてみれば固有の性格を有しながらも、集合を構成する個性の1つ1つは別途である。いうなれば「社会」が人格を手にしたようなものだ。

実際にヒトが肉体を捨て1つのサーバに集められたとき、個の境界は維持されるかもしれないし(設計次第だけど)、その場合にサーバ全体が1つの個性を持つこともありうる。いまは社会を構成する1人1人が細胞として目に見えるけど、ブレインネットは個の境界を(それを存在させたまま)不可視にし、集合に超人格を現出させる。
おそらくブレインネットでは、ブレインネットを構成する個人特有のローカル情報が「個性」として当該個人に保有され、それ以外のスーパークラス情報は共通化されてしまうのだろう。その共通化された情報が、1つのブレインネットの個性を決める。

もちろんこれも未来の1つの形に過ぎない。他にも想像もできない進化系と並存していく。

ということで、コネクトーム化した人類の未来像もおもしろかったし、本作は私にとって「スケールの大きい、ハチャメチャで驚きに満ちたSF」だった。
まあ主人公に対しては、みずはのこと好きじゃないなら別れろよとか、生殺しみたいなことしてみずはの方がかわいそうだろとかすごく思ったけど、それができないからこそダメ男なのよね。無間の宇宙でずっと呪われ続けるのもふさわしいんじゃないと思いましたよ。

 

みずは無間 2100年の科学ライフ フューチャー・オブ・マインド 心の未来を科学する 

 

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