オンライン飲みの限界と、オフライン飲みの3つの価値

いなたくん久しぶり!

コロナウィルスの影響による外出自粛により、Skype飲みやZoom飲みが世界的に増えてるね。

Skype飲みは、私は海外赴任した友人と2013年頃からやっていて、とても楽しい体験だったので周囲に勧めたところ、当時は「変わってるねー」といった反応が主だった。だからいま世の中的にその価値が認められて、やはり楽しいものは楽しいということで安心している。

こうした「オンライン飲み」は、今回の騒動に拠らずとも、長期的には普及していくと思う。

プレイステーションを発明した久夛良木氏は、コミュニケーションが最大の娯楽であると述べていた。オンラインの強みが、デジタルの介入による現実以上の体験の実現であるところ、「飲み」というコミュニケーションもデジタルにより強化され、強化されたコミュニケーションは現実を上回る娯楽となるはずだからだ。

その一方で、オンラインも万能ではなく限界があり、「オフライン飲み」はなくならない。むしろオフラインの価値は見直され、その価値に特化した体験となって行くはずだ。

これから数十年と言う少し長い視野で考えたとき、オンライン飲みの限界はどこになり、オンライン体験の拡大に対してオフライン体験は何を強みとして行くのか、考えてみた。

Summary Note

1.オンライン飲みの強みはデジタルの介入

2.映画をなぜ映画館で観るのか

  • オフライン体験の価値は「正直な信号」「身体性を伴う共通体験」「コスト」の3つ

3.オンライン飲みの可能性を拡げる「場」作りとしてのゲーム


1.オンライン飲みの強みはデジタルの介入

冒頭で述べた通り、オンラインの強みは、単に現実の体験をデジタルで再現するだけでなく、デジタルの強みを生かしてオフライン以上の体験を創れることだ。

たとえばボードゲームがある。人生ゲームとかモノポリーとか、正月に親戚と盛り上がったりしたよね。オンラインゲームも本質的にはこの延長上にあって、例えばCivilizationなどのストラテジ―系ゲームは、ボードゲームの名残りを色濃く残していたりする。

オンラインゲームは、ボードゲームで必要な「親」の役割、アイテムカード配布や点数計算を自動で行うのみならず、例えば全世界で好きなプレイヤーと戦えたり、さらにはユーザのレベルに応じて適切なマッチングをしてくれたりと、オフラインでは実現できない体験を提供してくれる。

オンライン飲みの進化も、基本的にはこれと同様に進むだろう。

どんなことが実現する?

単に遠隔地の人同士を繋げることにとどまらず、例えばリアルタイム音声翻訳の技術が向上し、言語を超えた「オンラインの飲み」が実現できるかもしれない。

たとえばリアルの友人でなくとも、ユーザプロファイルに基づき気の合う友人を全世界からマッチメイクして、新たな友人ができるかもしれない。

出会いが目的でないならば、出会い系アプリと違って、素顔が見えないことに問題はない。リアルではなくアバターを介して、素性の分からない相手と飲む、ということも一般的な風景となって行くだろう。

Twitterなど現在のSNSと同様に、相手の素性は半分程度は分からない状態、年齢性別出身は不明だけど趣味嗜好だけは分かるような、そんな状態でコミュニケーションを行うことが自然になっていく。むしろ、オンライン飲みにおいても(むしろ飲みという無防備な状態にあることを晒すからこそ)匿名性や安全を担保する機能は重要になる。

また周辺では、フードデリバリーや、飲みすぎないように適切な時間で切れてしまう機能とか、オンラインならではの課題を解決する機能も追加されていくはずだ。

コロナウィルスの騒動で多くの人が「オンライン飲み」を体験し、ハードルが低くなり、さらに帯域の問題も解決して、その上で種々の付加価値が乗せられれば、オンラインでの飲み会はひとつのジャンルとなっていく。

 

ということを前提として、それではオフライン飲みはこれからどうなっていくのか、そしてオンライン飲みに在るべき要件と限界は何か、もう少し深く掘り下げてみる。


2.映画をなぜ映画館で観るのか

オンラインに対する現実、すなわちオフラインの強みは「身体性」に他ならない。実際の物に触れ、相手の呼吸を感じることの価値だ。VRボディスーツによる力覚・触感再現という手段ももちろんあるが、リアルは再現しきれない。

身体性は、さらに具体的には次の2つの要素に分解できそうだ。

  • 正直な信号の交換
  • 身体性を伴う共通体験

デジタル技術は「正直な信号」を失わせる

「正直な信号(honest signal)」という学術用語がある。

たとえば笑顔について、自然な笑顔は目元も笑うが、作り笑いでは口角しか笑わない。目元の筋肉は不随意筋であり、自分の意思で動かすことはできない、つまり本当に笑っているときしか動かないからだ。

人間は相手の真意を探るにあたり、こうした非作為的なシグナルに注目する。これが「正直な信号」だ。そしてこれは、オフラインで相手と接することの重大な動機となる。

東京大学の岡ノ谷教授は、正直な信号とコストの関係について述べている。教授によれば、コミュニケーションにかかるコストが高いほど、正直な信号が担保されるという。

たとえば手紙がある。中世の頃、手紙が高価な通信手段だった時代には、人は(暗号化や欺瞞工作等はあったにせよ)伝えたい相手に対して、できる限り真実を伝えようとした。また受けても、そのコストから、手紙の内容は真実であると考えた。

一方でメールやチャットの普及した現代において、文章を伝えることのコストは限りなく下がり、ゆえに、スパムメールは溢れ、相手の返信もどこまで真実かはわからない。大事な話は相手に直接会って話そうとするのは、欺瞞不可能な「正直な信号」を表情や仕草から汲み取ろうとするからだ。

デジタル技術がコミュニケーションを補うほど、デジタルの世界における「正直な信号」は失われる。スクリーン越しに見える相手の顔は本物だろうか? その表情は加工されてはいないだろうか?

デジタル技術がオンラインでのコミュニケーションを補うほど、オフラインでの未加工のコミュニケーションが価値を持つ。

「身体性を伴った体験」を通じたコミュニケーション

オフライン・コミュニケーションにおけるもう一つの価値が、オンラインではどうしても実現できない、身体性を伴った体験だ。

同じものを食べる、スポーツをする、テーマパークや脱出ゲームといったアトラクションで遊ぶ、本物の芸術作品を見る…。

同じ食べ物をデリバリーしたり、VRスポーツを楽しんだり、もちろんオンラインでの代替手段はあるけれど、それでもすべてを置き換えられるわけではない。オフラインでしかできない体験は確実に残り、これを共に行うというコミュニケーションは、オフラインでしかできない。

なぜ映画は映画館で観るのか?

誰かと映画館で映画を観る。という体験は、コミュニケーションという側面でみたとき、オフラインならではの価値がある。その相手が大事な相手であるほど、その価値は際立つ。

たとえば恋人がわかりやすい。同じコンテンツを視聴しながらの相手の反応から、相手の好みに意識を配る。もしかしたら手が触れるかもしれない。観終わった後の感想をしゃべりながら盛り上がり、もしかしたらこいつは今夜イケるんじゃないか的な下心を巡らせる。

こうした体験は明らかにコンテンツ視聴そのものの価値と言うよりは、身体性を伴った体験を共に行い、正直な信号を交換して共感すること、あるいは共感を確かめることを目的とする。

と、性的欲求という動物にとっての最大の身体的動機を例に挙げたが、親しい友人とのコミュニケーションであってもこれは変わらなくて、その友人が大事な友人であるほど、特にこれから親しくなりたい友人であるほど、オンラインだけでは得られない「正直な信号」を交換したくなる機会はあるはずだ。

オフライン体験の未来

もうひとつオフラインの強みを挙げるとすれば、コストの問題はあるだろう。学校帰りの友人や、仕事帰りの同僚ならば、オフラインで会ったほうがコストが安い。あるいは設備や、面倒くささの問題もあるかもしれない。

が、コストの問題はおくとして、オンライン体験が従来のオフライン体験を代替するほど、オフライン体験はその特徴である「身体性を伴う体験」並びに「正直な信号の交換」に重きを置いていくだろう。

オンライン飲み、つまり居酒屋に関して言えば、料理やその場での体験が挙げられる。現状では居酒屋が有利だが、オンライン飲みの発展によりデリバリーが廉価・高品質になった場合、居酒屋はさらにそれを上回る体験を提供していくことになる。


オンライン飲みの可能性を拡げる「場」作りとしてのゲーム

さて、オフライン飲みの価値を整理したが、ではオンライン飲みが万能かと言えばそうではないはずだ。オンライン飲みを有意義にするために必要な要件もいくつかあるはずで、私はここではそのひとつ、「場」の重要性を挙げておきたい。

親しい友人との間であれば、ただ画面を開くだけで積もる話も、とりとめのない話も溢れるだろう。その間にはすでに関係性という「場」ができている。

しかし、初対面同士ではどうだろう。あるいは、コミュニティのレクリエーションを兼ねたオンライン飲みを想定する。

テレワークが当たり前になり、オンラインで労働を行う場合にも、そこにチームが存在するのであれば、業務外のコミュニケーションは行われることが好ましい。歓送迎会や、年に一度のイベントなど、オンラインで行う場合はあるだろう(私は仕事の飲みは苦手だが、しかし一定の「飲みにケーション」はチームビルディングに必要と考えている)。

こうしたとき、それぞれ手元に食べ物を用意してさあスクリーンに向かって盛り上がろう、ではなかなかキツい。「正直な信号」が見えなければ、相手の真意も探りにくい。

「場」としての広義のゲーム

ひとつ参考になるのがオンラインゲームだ。私は大学時代の友人たちと、オンラインゲームをしながら飲むことがある。あいつをどうぶっ殺してやろうと作戦を練りながら、チャットで軽口を叩きつつ飲む酒は、うまい。

ゲームという「場」があると、無言の時間があってもコミュニケーションは成立するし、ひとつの目的が題材があることで次の話題にも事欠かない。居酒屋の場合は「場」に相当する共通体験・目的が酒と料理であるところ、ゲームはオンライン飲みにおけるその代替になるわけだ。

もっとも、ゲームは認知資源を奪うので、会話でのコミュニケーションを主としたい場合には筋が悪いが、しかし共通体験としての「場」を用意することには一定の価値があるだろう。

認知的負荷の低い簡単なパーティゲームや、コミュニケーションのためのレクリエーション、あるいは射幸性を伴う簡単なギャンブルのようなものでもいい。これらはコミュニティによって好みが分かれるだろうが、TVゲームよりも広義の「ゲーム」が場の中心に持ち込まれることで、オンライン飲みの成立機会を広げることができるはずだ。

 

ということで、オンライン飲みが普及した際におけるオフライン体験の強みと、そしてオンライン飲みにおける「場」の重要性について整理してみた。

実際にどこまでオンラインのみが拡がるかはわからないけど、数十年と言う時間軸では、ひとつのジャンルとなるものと予想する。

そのひとつの契機となったのは、残念ながらコロナウィルスによる外出自粛というイベントだった。これについては、いち早い収束を願うばかりだ。

 

  

 

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