いなたくんへ
月刊誌『クーリエ・ジャポン』がデジタル書籍に移行した。「世界中のニュース記事を集めて紹介する」というコンセプトの雑誌で、世界の出来事を様々な視点でみることができおもしろい。
ただ、紙の雑誌だと買ったら一通り目を通さなきゃという気持ちになれてたけど、デジタルだとうっかり読まなくなったりしそう(してる)。月額800円を払い続けるかは正直悩ましいところだ。
クーリエの方向性について、経営コンサルタントの瀧本哲史氏が同誌のコラムで言及していた。氏はニューヨーク・タイムズの『どうやってテレビはインターネットに勝ったか』を紹介し、結局「コストをかけた読み応えのあるプレミアムコンテンツを、プレミアムプライスで、というのが遠回りのようで王道」だと分析する。紙とデジタルの違いではあるが、引き続き質にこだわった有料コンテンツの発信を続けるクーリエの方向性は正しいとしている。
紙媒体では最終となる2016年4月号の特集は『想像以上に面白く、明るい「未来」へ!』。その最初の記事『ハーバードのトップ教授が予言「戦争と暴力はやがて消えます」』では、スティーブン・ピンカー心理学教授による楽観的未来予測が紹介されていた。それは次のような内容だ。
- 制度的な暴力や犯罪は減る
- 国家間戦争は一定のペースで減少する(ただし内戦とテロについては楽観視できない)
- 資本主義経済では色々な国が市場を共有するので戦争に発展する可能性が低くなる(中国も経済に資本主義を取り入れて以来一度も戦争を行っていない)
- テクノロジーの進化が平和な世界の構築に貢献する
教授はこうした予測は主観によるものではなく、データに基づく客観的な判断だとして、次のように述べていた。
ニュースの見出しではなくデータに注目すれば、すぐに楽観的になれます。私は自分のことを、楽観主義者というより現実主義者だと考えています。
今回は、教授の言う楽観的な未来予測が正しいのか、そしてクーリエ・ジャポン最終号が予想する未来のいくつかを紹介したい。
Summary Note
テクノロジーが変える、未来の社会の3つの姿
- 2050年までにロボットとのセックスが当たり前になる
- 「超」民主主義が実現する
- ベーシック・インカムが人をクリエイティブにする(かも)
戦争と暴力がやがて消える、とする教授の予想は当たるだろうか。記事では、『ブラック・スワン』(2009)著者のナシーム・ニコラス・タレブ教授による反論も紹介されていた。ピンカー教授は根拠とする「戦争による死者数」を少なく見積もりすぎており、正しく統計を取れば戦争は減っていない、という批判だ。もしそうなら「データに基づく客観的な判断」が揺らいでしまう。
戦争の減少については私も疑問に思うところがあった。例えば、資本主義による経済的結びつきが戦争の発生を抑止する、という教授の主張はどうだろう。シンクタンク「ストラト・フォー」所長ジョージ・フリードマンは著書『100年予測』(2009)で、第1次世界大戦前夜の欧州各国もまたグローバルな結びつきを持っていたと指摘している。その一節は、起こるはずのない未来こそ起こるので油断はできない、という文脈で語られていた。
想像してみて欲しい。今は1900年の夏。あなたは当時世界の首都だったロンドンに暮らしている。この頃、ヨーロッパが東半球を支配していた。ヨーロッパの首都の直接支配下に置かれないまでも、間接統治すら受けない場所など、地球上にはまずなかった。ヨーロッパは平和で、かつてない繁栄を享受していた。実際、ヨーロッパは貿易と投資を通じてこれほど深く依存し合うようになったため、戦を交えることはできなくなった、あるいはたとえ戦争を行ったとしても、世界の金融市場がその重圧に耐えきれなくなり、数週間のうちに終結する、といった説が大真面目に唱えられていた。未来は確定しているように思われた。平和で繁栄したヨーロッパが、世界を支配し続けるのだ。
『100年予測』より
現在たまたま正規の国家間戦争(特に先進国によるもの)が起きていないだけで、いつまた戦争の時代が始まるかはわからない。江戸時代の平和は200年以上続いたが、永遠ではなかった。世界を見渡してみても、火種がなくなったとは思えない。
あるいは戦争の形がすでに変わっていて、正規戦が見えなくなっただけかもしれない。近年で言えばクリミアをめぐるロシアとウクライナの衝突のように、「戦争」と名のつかぬ戦争も起こっている。そこに政治がある限り、戦争がなくなったり、減っていくとは考えにくい。
と、戦争減少説に対する疑問を書いてはみたものの、「未来は楽観的に見るべし」いう主張には私は全面的に賛成だ。ピーター・ディアマンディスとスティーブン・コトラーによる『楽観主義者の未来予測』(2013)では、未来予測が悲観的になりがちな理由として次の2点を挙げている。
- 脳が悲観的に考えるようできている(ヒトは過酷な環境への警戒を怠らぬよう、物事を悲観的に捉えるべく進化してきた)
- ヒトは変化の乏しい環境で15万年間過ごしており、近年の指数関数的変化に対応できるようにはできていない(変化の大きさを小さく見積もってしまう)
『楽観主義者の未来予測』によれば、世界のニュース記事の90%は悲観的な内容だという。経済系の特集や本をみても、不況マジやばくなるよ系の、不安を煽るものは多いよね。あとは終末論とか、世界は終わる系の予想とか。
人間はネガティブな話を聞くと、つい気になって耳を傾けてしまう。そういう風にできている。だから話す方としては「将来は悪くなる」と言っておけば、売れたり、話を聞いてもらいやすい(というか本人も本気でそう信じてるだろう)。私も人なのでネガティブな予想が気になりがちだけど、だからこそ意識して眉にツバをつけ、楽観的に考えたい。
なお2点目の「近年の指数関数的変化に対応できない」は、テクノロジーがもたらす豊かさを人が(本来的な能力として)想像できないことを指している。移動なり、通信なり、娯楽なり、食事なり、私の今日の一日は100年前の大富豪が望んでもできなかった便利なことで溢れている。これは豊かさであり、テクノロジーにより実現された。
100年前の人が現代を想像できないように、私たちもまた未来の豊かさを想像することはできない。しかしテクノロジーが進歩を止めない限り、未来には圧倒的な豊かさが待っている。
『楽観主義者の未来予測』は次の記事でも紹介した。
それではクーリエ・ジャポンが特集で挙げる「想像以上に面白く、明るい未来」とはどんなものか。いくつか気になったものを紹介したい。
注目すべき未来のテクノロジーとしては、植物生まれのスーパーフードとか、ブレインネットの話とか、3DプリンタやAR/VR技術なんかが挙げられていた。正直なところ普段このブログでも紹介しているものばかりで、真新しい話はなかった。一方興味深かったのはテクノロジーそのものではなく、テクノロジーがもたらす未来の姿だ。
と予想するのは人工知能研究の第一人者で『ロボットの愛とセックス』著者デイヴィッド・レヴィ。米国人を対象にした「ロボットとのセックスに対する意識調査」(2013、国際的世論調査機関ユーガブによる)も紹介されていて、18%が15年後にセックスロボット(セクサロイド)を購入することが当たり前となっていると予想、9%が実際に使ってみたいと答えたそうだ。この結果についてクーリエ・ジャポンは、米国人の9%と言えば2900万人にあたるので莫大な利益を生む可能性があるとしている。
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調べたら関連記事がいくつか出てきた。
不気味の谷をどう超えるかの課題はあるけど、ヘッドマウントディスプレイにより誤魔化すアイディアなんかもあるようで興味深い。用途が用途なだけに、指数関数的な技術的進歩が期待できそうな分野である。
この種の製品・技術は古くからあるが、このセクサロイドも「大人のオモチャ」の延長に過ぎないだろうか。その性能が人間を上回ったとき、従来のオモチャとは一線を画するものにならないか。
私が大きな課題だと考えるのはコミュニケーションだ。根底にある「相手との対話」があってこそ行為は喜びを生むのであって、それがなければどんなに気持ちよくてもオモチャの延長で終わってしまう。課題はハードではなくソフトにある。……と思うんだけど、そのあたりはチューリングテストをクリアした人工知能が補ってくれそうな気がするね。そうなると、子孫を残すという機能と、性欲とは、分離したものになっていくのだろうか。
「デモクラシーOS」(Democracy OS)はネット上で討論や投票を行うオープンソース・ソフトウェアだ。これはネット上に対話の場を創り出し、市民の政治参加を促す。クーリエ・ジャポンでは次の実績とともに紹介されていた。
- 2013年ブエノスアイレスの地方選挙で議会はデモクラシーOSを採用し、いくつかの労働に関する法律が整備された
- メキシコ政府がデジタル関連法に関する一般市民の意見を知るために活用した
- チュニジアの新憲法について討論するために、ソフトが非営利組織によりアラビア語とフランス語に翻訳された
そして「新しい民主主義では、人々は1つの争点ごとに投票する」と予想している。
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これって日本のような人口の多い国でも直接民主主義が実現するということ? いや、代表者を決めるのが争点でなく、個別の論点1つ1つを市民全員で決められる可能性があるわけで、それは直接民主主義をはるかに超えた「超」直接民主主義と言えるだろう。これはすごい。
でも論点が細分化されたとき、誰が大局を見て、誰が戦略を立てるのだろう。一部の不利益を承知で総体としては大きな利益を得る、といった駆け引きも重要な政治の要素と思うんだけど、それは誰が担うんだろう。結局はメディア(発言力の強い人)に衆愚が振り回される、民主主義の欠点を絵に描いたような社会にはならないか。
というのは悲観的すぎる予想なんだろうな。テクノロジーとは科学技術に限られず、社会制度もまたテクノロジーであるとされる。いま私が既存の社会のアナロジーでしか考えられていないだけで、社会の仕組みもよりよい形に、より新しい時代に適した姿に進化していく。民主主義とはまったく異なる社会制度が現れる可能性もあるだろう。その最初の一歩として、いまある民主主義を超えていく、その可能性を作るものの1つが「デモクラシーOS」なのだ。
最後に挙げたいのはベーシック・インカムに関する実験だ。クーリエ・ジャポンでは「ベーシックインカムが支給されても生産的なことをするのか?」というドイツの実験を紹介していた。実験では、26人に対して1000ユーロ(ドイツ人平均所得の半分、生活保護給付金の倍以上)を支給している。財源はクラウドファンディングによる。26人のほとんどはその後も仕事をやめず、総じてクリエイティブになったという。
ちなみにフィンランドでは、2017年から予備調査として1万世帯を対象に月800ユーロを支給する予定とのこと。
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「仕事を辞めずクリエイティブになれた」と言うけど、それはこの実験が短期的なプログラムだったからに過ぎないでは。お金をもらえるとしても、その終わりが見えてるなら、その後に備えたスキルアップに励むのは当然の気がする。でももし一生もらえるとなれば、私ならネットゲームで過ごして人生を終える可能性は決して低くないです。
でもそれって悪いことなのかな。ネットゲームをひたすらやりこむことでも、それがやりたいことなら、やはり何かしらのクリエイティブに結びつく可能性はあるだろう。かつて芸術家はパトロンからお金をもらって時間を創作に費やしたけど、すべての人々がその境遇になったとき、その何%かは偉大な創作物を生むかもしれない。「その何%か」にあたるクリエイティブな人口は、現在のそれに比べれば膨大な数であって、社会はそれだけの創造力を養えるようになるのだ。
そんな社会を実現するのはテクノロジーだ。すでに述べたように、テクノロジーは私たちを毎日の水汲みや過酷な農作業から開放した。引きこもりが何日も何年も部屋に引きこもって死なない(殺されない)なんて、大昔には考えられなかったことではないか。
いま人工知能が人の職を奪うと危惧されているけど、仕事を機械に任せられるなら、人は遊んでいればいい。これはつまるところ、テクノロジーがベーシック・インカムとして機能するのと変わらない。
ところで引きこもりを例に出したけど、「働かなくてよいこと」と「幸せになれること」とはまったく別の話だ。「幸せとは、嫁の兄よりも月給が10ドル高いことである」という趣旨のことわざがある。幸せとは相対的なものに過ぎないのであって、便利な未来が訪れても人は働き続けるだろう。同僚よりも1000円高い給料を勝ち取るために。でもその仕事の中身や働き方は現代とは予想もできない異次元のものになってるはずで、そうして社会はさらに豊かに加速していく。
ということでクーリエ・ジャポンの特集を読んで、思ったことを並べてみた。よく考えるとセックス・ロボットの実現がなんで「想像以上に面白く、明るい未来」なのかは議論の余地がありそうだけど、そこは素直に実現を待ちたいと思う。
重ねて書くけど、悲観論には流されず、今後も未来の姿を楽観的に想像したい。