いなたくんへ
テクノロジーの進化やイノベーション論でよく目にするのが、自由な生き方、自由な働き方の実現だ。
たとえばWIRED編集長のクリス・アンダーソンは「会社という形態はすでに、二十世紀の遺物ではないか」と疑問を提示。小林弘人著『Webとは現実世界の未来図である』(2014)では、「通常の会社組織は社員を雇っている異常、能力や適性が足りなくてもその人材を使わなくてはならない」が、「ネットでは有能な人間とだけ競争が可能だから、効率が圧倒的に良くなる」として、新しい組織の可能性に言及していた。
この流れにある組織論に、近年話題を集める「ティール」がある。ティール組織とは、組織のメンバーがそれぞれ自己決定を行う自律的組織であり、極めて自由度の高い働き方が実現される。
これを受けて、ティールこそが正しい組織の在り方であり、ピラミッド型の組織とは古いものであり、いずれ全てがティールにかわる、という極端な言説を聞くこともある。
本当だろうか?
私はかねてより、ティール組織、というよりティール組織信奉者の言葉に違和感を覚えていて、今回その限界について考えてみた。
また、仮にティール組織が広く普及した状態においては、私はネットワーク効果によりむしろ格差が拡大すると予想する。そのとき富の再配分の方法として期待されるベーシック・インカムについて、財源問題の解決策を考えてみた。
Summary Note
1.ティール組織はどこまで成立するか
- ティールは万人に通用するのか?
- 大きすぎる自由は人を溺れさせる
- 組織がフラットにならないのは人間だから
- ティールはスケールフリー・ネットワーク問題を起こすか
- 労働の高付加価値化は全ての人を幸せにしない
2.ベーシック・インカムの財源問題を解決する3つの方法
- ノブレス・オブリージュ
- 多数決
- 再配分が利益を生む構造とする
ティールとは、元マッキンゼーのフレデリック・ラルー氏が著書『Reinventing Organizations』(2014)で提唱した組織論だ。同書は17カ国語に翻訳され40万部を超えるベストセラーとなった。
従来型の中央集権的上意下達型組織(多くの会社組織はそうなっている)に対して、ティール組織では、ボトムアップ型の意思決定プロセスを重視し、リーダーは存在しない。メンバーはそれぞれ差利用権をもって、自らの主体性の下に自律的に活動をする。各メンバーの関係は完全にフラットであり、各個人が有機的・調和的に協働することで、共通の目的を達成しようとする。
私はティールの考え方は否定しないし、所属組織(企業)の垣根を超えて有志がユルく集まり大きなプロジェクトを実現する、といった場面にも何度か立ちあったことがある。これからのCo-Designの時代、当事者デザインの時代において、イノベーションの実践はティール的な関りからこそ生まれるだろう。
しかしながら、ティール組織をあらゆる組織の次世代であるとし、旧来的な組織の在り方を全く否定する考えには賛成できない。ティール組織は理想的ではあるが、あくまで例外的な組織形態に留まると私は思う。
これに関して、北野唯我著『転職の思考法』(2018)に興味深い一節があった。同書は物語形式で転職の考え方を解説するが、主人公が「自分の好きなことは何か?」というあるあるの疑問に悩んだとき、コンサルタントに次のように告げられる。
99%の人間は『心からやりたいこと』という幻想を探し求めて、彷徨うことが多い。なぜなら、世の中に溢れている成功哲学は、たった1%しかいないto do型の人間が書いたものだからな。彼らは言う。心からやりたいことを持てと。だが、両者は成功するための方法論が違う。だから参考にしても、彷徨うだけだ。
『転職の思考法』より
『転職の思考法』によれば、仕事を楽しむ人間の使う言葉は二種類に分けられる。
- to do(コト)型:明確な夢や目標を持ち、何をするのかで物事を考える
- being(状態)型:どんな人でありたいか、どんな状態でありたいかを重視する
そして同書は、99%の人間はbeing型であり、「being型の人間は、ある程度の年齢になった時点から、どこまでいっても『心から楽しめること』は見つからない」と指摘する(その上で、それが問題ではないことも説明する)。
これは私の偏見だけど、ティール組織を称賛する人って、どうもto do型が多い気がするんだよね。ティール組織に向く人イコールto do型とまでは言わないけれど、生存者バイアスというか、ティール的に自由な働き方を実現できた人が「こっちの水は甘いぞ!」と言って煽るような、あるいはそれを見た現状に不満のある人が隣の青い芝を見る眼差しで、ティールに救いを求めているような。
でもティールって、決して万人向けではないと思うんだよね。
自由には代償として責任が伴い、責任を担保できる能力が求められる。
ティール組織の最終形では、メンバーは常に自分とチームとの目標を自覚し、全体の意思決定プロセスすら経ずして、組織に対してできる最善の活動を自発的に行う。
これってメチャクチャ高度だよね。
実際に私がみたティール的な働き方をする人たちはみな、高度な専門性や経験、能力を持ち、指示待ちの人は誰もいなくて、自分で難易度の高い課題を見つけ出して、情熱でそれを解決していた。そういう人たちが対等な能力を持つ人同士で結びつき合い、ごく自然発生的に、そこにチームが出現する。
だけどそれは特別な事例だ。私たちは、誰もが自ら課題を見つけ、創造的に振る舞えるわけではない。
指示をもらって、与えられた仕事を淡々とこなす方が性に合う人もいる。先の「能力」という書き方は厳密には適してなくて、良し悪しではなく適性の問題で、そういうやり方のほうが(他人に比べて)能力を発揮できるタイプがいる、ということだ。そういう人は逆に、あまりに自由度の高い環境では何をしたらいいかわからず、パニックに陥ってしまう。
私は「自分の能力で対応できる裁量の範囲よりわずかに高い自由度」が与えられた環境こそが最適解だと考える。たぶん人は、そのような環境で最も自由を自覚できる。それ以上の大きすぎる自由は、むしろ人を溺れさせてしまう。
実際にティール組織について調べると、「よくある誤解」として、ティールが全ての組織を置換するものではないと説明される。
WIRED創業編集長ケヴィン・ケリーは『インターネットの次にくるもの』(2016)で、自律的な個人によるボトムアップの力を重視しつつ、トップダウンの重要性にも触れていた。
同書では、例えばプラットフォームではなくプロダクトの生産を目的とする場合には、強力な指導者や階層が必要であるとし、その上で、トップダウンとボトムアップの適切な協働が在るべき姿であるとする。
英エコノミスト『2050年の技術』(2017)では、組織のヒエラルキーを無くそうとする試みはこれまでうまくいっていないとし、未来においても「組織構造はフラットにならない」と予想。その理由を次のように述べている。
それを示すデータとして、1983年以降、アメリカ経済における管理職の数はおよそ二倍に増えている。
平等主義的権力構造が失敗する一因は、ヒエラルキーにおいて自らがどのような地位や全体的立場にあるかという認識が、たいていの人にとってきわめて重要な意味を持つことだ。
みんな隣人の権力には敏感だよね。にんげんだもの。
それでもティールが広く普及したらどうなるか。
インターネットの世界は、見方によってはすでにティール的なものを成立させている。インターネットは、遠隔地に存在する小さな需要と小さな供給とをつなぎ合わせ、コラボレーションを実現する。供給者はこの系に自律的に参加し、必要な他のリソースと有機的に繋がって、付加価値を創り出す。
しかし、その仕事の全てに十分な対価が生まれるとは限らない。労働の種類によっては需要に対して供給が飽和し、市場原理によって対価は著しく低下する。
やはり「書きたい(読んでもらいたい)人」から金を取って、「読んであげる人」に金を払う、というのが21世紀のビジネスモデルなんでわ https://t.co/vn8dT7wqza
— ultraviolet (@raurublock) September 24, 2019
あるいは、チームが常に流動的なティールは、スケールフリー・ネットワーク現象を引き起こしうる。
スケールフリー・ネットワークとは、典型的にはウェブのような、ハブとスポークとからなる大規模ネットワーク構造を指す。そこでは優勢的選択が生じ、すなわち、能力のあるノードへの一極集中が起こる。
ティールが主流になったなら、能力の高い一部の人に仕事や対価が集中するかもしれない。同じ専門性の比較において相対的に能力の低い他の人々は、ロングテールとなって十分な機会を得られない。
ティールが普及する要因のもう一つの可能性として、自律システムの進歩がある。
AIなどの自律システムがより高度化すれば、人間が行うべき労働はより高付加価値で創造的な領域にシフトする、という予想がある。もちろん、完全に全ての仕事が創造的なものになるかといえば、それは極端だろうけど、傾向として、そうした労働が労働市場の少なくない割合を占める未来はありうるだろう。
あるいは自律システムに拠らずとも、定型的な業務が人件費の安い地域に外注される、といったことも局所的には進行しうる。
いずれにせよ、労働市場において高付加価値労働が主流となれば、これと親和性の高いティール的な働き方が適応的に普及していくかもしれない。このような未来において、人間同士は内発動機に基づき有機的に結びつき合うとともに、対価は専門性や能力の高い一部の人間に集中し、ゆえに労働機会は限定される。
そういうわけで、個人の自律性を重視するティールという働き方は魅力的だが、それは高い専門性や能力に裏付けられてのものであり、人々を自由にするどころか、むしろ機会を奪うかもしれない。
そこで考えられるのが、ベーシック・インカムだ。
たとえば労働の一極集中が起きたとき、わずかに1%の優秀な労働者が富を集めるものとする。残りの99%の人々は、自身のできる範囲での労働を行いつつも、十分な賃金が得られない。このとき、1%の人が99%の人々に富の再配分を行うことが望まれる。
99%の人にとって、労働のみではなく給付により生活が支えられるならば、それはベーシック・インカムとなる。ベーシック・インカムは財源が大きな問題とされるが、1%の人が富を集めるという前提に立てば、原資はまず確保できる。
次の大きな問題は、1%の人々が99%の人々に富を還元することのインセンティブだ。この再配分をどう実現するか。富とは力であり、他者よりも力をもつことで個として優位に立とうとするのは、生物としての本能だ。これにどう逆らわせるか。
次の3つのアプローチを考えてみた。
1%の人の自由意思による再配分に期待する。実際に大富豪と呼ばれる人たちは多額の寄付を行うことも多く、期待できる。
とは言え、99%の人々の生活を支えるほどの規模となると難しそうだし、自由意思のみに基づくのでは安定せず、持続的とは言えないだろう。
共同体の99%の総意をもって、1%の人に対して、再配分を法的に義務付けさせる。これは法治国家による民主主義的な解決である。現状でも累進課税がなされているが、それがさらに激しくなるイメージだ。
しかしながら、国家が介入しての強制的な再配分は、程度が低ければ「福祉国家」と呼べるが、その程度が強まれば社会主義的色彩が強まる。それ自体は悪いことではないけれど、1%の人が富を生むことのインセンティブを奪ったり、そもそも国外に出られてしまうことの懸念は残る。
ひとつの未来ではあろうけど、いささか乱暴であり、実現には大きな摩擦を伴うだろう。
ではどうするか。1%の人にとって、再配分が長期的・持続的観点での利益となる構造をつくればいい。
たとえば1%の人の富が消費により支えられるとして、その需要者たる99%の人が対価を払えなくなれば、1%の人もいずれ立ち枯れてしまう。そのような経済の壊死を防ぎ、循環を担保することは、1%の人にとっても重要であるはずであり、1%の人が富を社会に還元することの動機となる。
金が金を生むのではなく、金の分配によってしか金を維持できない、そんな構造がつくられることが好ましい。
1%の人は、再分配後に残る少し多めの金銭と、能力に見合った自由な生き方という報酬を得る。他方、99%の人たちは、能力に見合ったフレームの範囲で幸福に生きる。
これは見方によっては、1%の人が残りの99%を「消費者として飼う」ようにも捉えられる。が、流動性さえ担保されれば、私はそれでもいいと思う。世代交代を経ながら、1%の人は階級として固定されず、能力に応じ99%の人との間で入れ替わる。
人々は能力に応じて働き、その富を再分配するにせよ、あるいは分配を受け取るにせよ、その生活は担保される。これはマルクスがゴータ綱領批判で示した「共産主義社会の高い段階」にも近い。
各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る。
『ゴータ綱領批判』における「将来の共産主義社会の高い段階」
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ということで、まずはここしばらく流行りのティールについて、心のモヤモヤを書き出してみた。ティール組織。理想的ではあるのだけれど、悪く言えば強者の理論というか、成功者の生存バイアスというか、人の可能性に期待しすぎな気がしてしまう。自由は無償じゃないというか。
もちろんティールの力は信じるものの、それが実現できるのは一部の人であって、そしてそうだからこそ、労働市場がネットワーク化し、あるいは機械に置き換えられるようになったとき、多くの雇用が失われる未来も考えてしまう。
しかしながら、ティール組織のような、内発動機に基づく生き方そのものが価値として認められるならば、そうした生き方をこそ普及させ、賃金はもはや副次的な調整材として社会に還元・循環される未来もあっていいと私は思う。
そんなユートピアの実現を夢見つつ、ティールの普及に期待したい。