私の中国に対する態度について

いなたくんへ

「アジアITなまはげ」とも称されるITライターの山谷さんが、ネット界隈の中国に対する態度について苦言を呈されていた。脅威論だったり、中華クソ論だったり、翻って日本はもうダメ論だったり、中国にまつわる言説は様々あれど、実態を自分の目で確かめもせずに流されすぎじゃないの、というものだ。タイトルがだいぶ煽り気味だけど、Togetterのまとめも。

私も中国に関してはこのブログでいくつかの記事を載せてきた。トンデモに属する話も紹介してきた(いわゆる中国崩壊説とか)。
ただでさえフェイクニュースなどネットメディアの信憑性が疑われるこの時代、ソースや現物を確かめるのが筋であるところ、ネットの上澄みをクロールしてその言説を流布する点で、当ブログも山谷さんの一喝に無関係とは言うことができない。

次のつぶやきなんかも、実に耳の痛いご指摘。

地理的関係から、日本は有史以来、中国の影響を受けてきた。それは現代においても、おそらくは未来においても変わらない。好むと好まざるとに関わらず、あの国のことを考え、付き合わねばならない場所に日本はある。

とは言え頻繁に現地に行けるわけでもないので、ソースは書籍か、ネットになる。そのとき巷の言説に流されずに一定の立場を取れるといえば、私はもしかしたら微妙かもしれない。1つには優柔不断で流されやすい性格というのがあるけど、中国自体が、私を優柔不断にさせる存在であるからだ。

ということで、いずれ書きたいと思ってたんだけどこの機会に、私の中国に対する態度を述べておきたい。自分のための備忘録として。


中国はすごい

中国はすごい。
経済への不安とか、国内の格差とか、多様性とかあるけれど、13億人が統制されて、成長を続けている。人口は正義だ。それが莫大な潜在力をもち、未来に手にするだろう大きな可能性に向けて前進している。正直いってうらやましい。

中国の科学技術力に関しては2014年と2016年に記事を書いた。いずれも書籍とかネットの拾い読みのまとめではあるけど、科学技術への投資がしっかり行われ、それが実を結ぶ方向に進んでいることは見て取れる。

最近では驚かされるのが宇宙開発だ。アポロ11号の月面着陸が人類的偉業すぎて宿敵ソ連の民衆も歓喜した、という話があるけど、数十年後には中国がそうしたレベルのた偉業に辿り着くんじゃないかみたいな、そんな期待すらしてしまう。

あるいはスピード感と柔軟性。山谷さんの指摘する通り、質的には大きな問題があるのかもしれないが、中国の変化の速さには舌を巻く。


中国はこわい

かといって手放しで喜べないのが、中国だ。中国はこわい。

1つには内政の話がある。監視社会であるとか、一党独裁の是否とか、あるいはチベット・ウイグルでの弾圧とか。日本にいると眉をひそめる論点があの国には散見される。ただこれは報道にもだいぶ脚色があるように感じているし、立場によって受け止め方も変わるので、ここでは問題にしない。

そうではなく客観的に地政学の問題として、あれだけのパワーを持った国が隣にいるというのは、こわい。国の性格に拠らず、国が違えば利益も違うのが当然だから、それが国境を接するならば、何も問題が起こらないと考える方が不自然だ。その観点で中国と対峙したとき、日本はいつまで対等な場を持ち続けられるのか。ともすれば巨像に踏みつぶされはしないかという恐怖が、どうしても消えない。

私は中国に多くの友人がおり、その歴史や文化には羨望すべきところがあり、料理はおいしいしまた何度でも旅行したいけど、でも隣国に住む者としては、やはり脅威である。

だから感情的には、中国がどこまで伸びるのか、現在の国際的レジームをどうぶち壊すのかを野次馬根性で見たい一方、もしそれが実現すれば影響を受けるのは自分であるから、やっぱり中国さんにはほどほどの立場でいて欲しいな、いっそ崩壊してまた現代版三国志にならないかな、という期待もしてしまうのだ。

このアンヴィヴァレントで複雑な感情は、長く隣国として接してきた歴史が私に起こさせるのか、あるいは中国という広大で多面的な国情が、触れる者にその気持ちを起こさせるのかもしれない。


中国が魅せる未来の「可能性」を見たい

さて、そうした相反する感情がある中で、これからどう中国を見ていくのか。
その前にまず、このブログの趣旨を改めて紹介したい。

未来予測の確度はあまり重視しない

このブログは未来予測のために書いている。
でも予測の確度にはあまりこだわっていなくて、ときにはトンデモな言説や、あるいはフィクション作品の予想なんかも紹介している。その背景には、私が特許の仕事をしてきたこともあるかもしれない。

例えば昨今注目を浴びる自動運転だが、実はその技術は今から十年以上前に、下手をすれば二十年も前に、自動車メーカーからいくつもの特許出願が出されている。当然、10年前に自動運転がカタチになっていたかと言えば、それは否だ。実現のためのリソースも技術も不十分な時代である。しかし出願があるということは、可能性は示されていたことになる。その可能性がいま、中身を伴ったものとして実現しつつあるわけだ。

ヒューマン・コンピュータ・インタラクションの先駆者ビル・バクストン氏は「次の10年に重大な影響をもたらすテクノロジーのあらゆるものは、少なくとも10年前には存在している」と述べている。もっともこの発言のポイントは、10年前の技術のすべてが10年後に花開くわけではないという点だけど、そういう理由で私は、確度はある程度度外視して、種があればそれが10年後に在るべき姿を想像することにしている。

中国の「いま」から見る10年後の「世界」

中国についても同様の態度で考えている。
いまや中国は巨大な実験場の様相を呈している。例えば実生活での素行をもポイント化される社会信用システム「芝麻信用」。山谷さんがすでに1年半前に紹介されているけど、ゲーミフィケーションで人を管理するという点でなかなか未来を感じられる事例だ。

あるいは一時期話題になった中国の二階建てバス。こちらは結局投資詐欺という結末で終わったようだが、未来のビジョンを提示するには十分すぎた。こういうのが形になっちゃうのってすごいと思うし、下記リンクの潜入レポートによれば、プラットフォームや実験線もできてたようで参考になる。

中国発の先駆的事例は、実際にはごく一部の小規模な実施だったり、実態を伴わない張りぼてな場合もあるだろう。でも10年後にはどこかで実現するかもしれないし、未来を考えるヒントとしては刺激的だ。その意味で、私は中国を最大限評価し、ベストエフォートを受け止めていきたい。

と言うと、山谷さんの指摘に言い訳してる気がしてきた。いや、反論や言い訳のつもりじゃないんだ。
ウェブの上澄みを鵜呑みにせず、全体像や客観性を把握したうえで考える、できる限り自分の手で触ってみる、という態度はあくまで必要だと思うし、そこは反省して臨みたい。

さて中国の未来と言えば‥

山谷さん山谷さん連呼したので、ついでに未来の話をすると、山谷剛史著『中国のインターネット史』(2015)は必読である。タイトルの通り、中国におけるインターネットの歴史を俯瞰しつつ、その歴史観でもっていま起こる変化を解説している。中国の動きは我々の棲む「ワールド」・ワイド・ウェブに対する挑戦とも言え、むしろ世界の未来を考えるうえで欠かせない知見だ。


知彼知己、百戰不殆

蛇足ながら、最後に日本の話も書いておく。

これは愚痴になるけど、私は中国のベストエフォートを評価すると書いたが、だからと言って「日本はもう負け」という言説には与さない。中国を高く評価するのはあくまで、その上で我々はどう戦うのか、どう勝っていくのか、という次の一歩を考えるための前提である。
「彼を知る」のは百戦危うからぬべくするための条件であって、白旗を振るための議論とすべきではない。

もっとも、そうすると中国を過大評価しがちな私のような人間は「彼を知る」ができていないことになるんだけど、その点で、現地に足を運び地に足の着いた評価を教えてくれる山谷さんのような方は貴重な存在である。

さらに蛇足を重ねると、「彼を知る」ことに並んで重要なのが「己を知る」ことであるところ、昨今の「日本スゲェ」番組にも違和感が強い。「日本はこんなにすごい、けど外国にはこんなアプローチもあっておもしろいし参考にしたいね」みたいな相対評価ならいけど、ただ手放しに日本を絶対高評価するのでは「己を知る」ことが危うくなりそう。や、ポルノにマジレスしても仕方ないんだけど。

 

 

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