いなたくんへ
夏休みと言えば自由研究。この「自由」というのがクセモノで、何の制約ももない中からテーマを決めるのはかえって大変だったりする。作文なんかもそうだよね。お題もなしに「自由に書いてみな」とか一番困る。
でも大人になると、「業務目的」やら「期待される成果」やら誰かに(あるいは自分で)設定された枠の中で生きることが当たり前になってしまった。だから夏休みくらい小学生に戻って、制約なく自由なテーマで何かに取り組むのもよいのでは。
ということで私は自分なりの「夏休みの自由研究」をすることにしている。といっても1日、2日で終わるようなお遊びが多く、「研究」とも呼べるものではないけれど。
今年はディープラーニングによる白黒写真のカラー化をやってみた。話題的には旬を過ぎているものの、前やらやりたくて手を出せずにいたのでちょうどよい機会だった。カラー化のアルゴリズム「ディープネットワークを用いた大域特徴と局所特徴の学習による白黒写真の自動色付け」早稲田大学が開発していて、さらにはボタン1つで白黒写真をカラー化するWebサービスを2016年に公開。便利すぎてアルゴリズムを意識する隙は全く無い。
- Neural Network-based Automatic Image Colorization プロジェクトサイト(早稲田大学,2016)
- 白黒写真をワンクリックでカラー化!早稲田大学の助教授が開発した神サービスが楽しい(笑うメディアクレイジー,2016/11/2)
むしろ大変なのは白黒写真の調達だ。お盆の帰省で古いアルバムを引っ張り出すも、台紙に張り付けられた写真を剥がすのは忍びない。仕方なくカメラで撮ってトリミングしたが、カラー化に大きな影響はなかった。
大正から昭和の様々な写真をカラー化して楽しんだのだけど、今回はその中から、祖父の従軍中の写真を載せる。や、他人の先祖の家族写真見せられても仕方ないと思うんだけど、戦争中の写真なら興味持ってもらえるかな、みたいな。
当時祖父は神奈川に勤務していて、1942年4月のドゥーリットル隊による東京初爆撃も電車から目撃したりしている。その後1943年2月に召集され中国へ渡った。祖父の遺した日記も参酌しつつ、アルバム写真をカラー化してみた。
写真は、主に1943年7月の明光鎮(中国安徽省)配備後のものが多い。祖父は同年2月に召集され、4月に故郷を出たあと品川を経由し、下関から釜山にわたる。それから満州国瀋陽を経て山海関(満支国境)を通過し、天津から南京まで南下、鎮江(江蘇省)に着任した。明光鎮配備がその3か月後の7月。配備前に一等兵になっている。
明光鎮は南京から北西100kmほどの場所。当時の戦況としては、江南殲滅作戦(1943年5月~6月)や常徳殲滅作戦(1943年11月~翌1月)といった湖北省での戦いが展開されており、祖父の配備地は後方だったといえる。そのおかげで無事に帰ってきてくれたわけだが。
1943年9月から10月にかけて「広徳作戦(※祖父のアルバムに基づく呼称)」が行われる。広徳は南京の南200kmの場所にあり、前線よりもだいぶ内側にあるが、何らかの理由で派兵が必要になったのだろう。日記によれば、部隊は9月27日に出発し、あまりの強行軍で銃剣自殺を図る兵も出る中、10月7日に広徳城に夜襲をかけ占領する。その後も戦闘は続き、入城は25日となっている。写真は作戦後の広徳城内のものが何枚か。
このカトリック教会の写った写真には「教会は前回の攻撃で破壊されていた」との注釈があった。「前回」とは、広徳を含む長江南岸の攻略を目的とした江南作戦(1940)かもしれない。祖父の参加した1943年の「広徳作戦」は再度の制圧だろうか。
南京は1937年に日本軍に占領され、1940年からは日本の傀儡政府・南京国民政府の首都となっている。祖父の部隊は広徳作戦のあと、明光に戻る前にまず南京へ帰還している。
正月に関して日記では、現地住民とともに爆竹を揚げたことが書かれていた。
最後に、アルバム中で「五河討匪行・八路軍を追う」と題されたページの写真を掲載する。いずれも1944年から1945年の写真と思われるが、詳細な日時は不明だ。1944年10月に故郷に届いた手紙の結びには「これからは討匪行です」と記されていた。
八路軍ということで、国民党軍だけでなく共産党軍にも対応していたことになる。対ゲリラ作戦のようなものだったのだろうか。また、「五河」は長江支流のいくつかをそう呼んだのかもしれず、船の写真もある。
日記では、この時期には新四軍との度重なる戦闘や、九州へ向かうB29大編隊の頭上通過、襲撃を受けた戦友の自爆などが書かれていた。
最後の1枚は「第一中隊全滅・戦死13名」と題されたページから。1944年9月15日に新四軍の襲撃を受けたもののようだ。他にも葬儀の様子を写した写真はあったが、きれいに撮れているのはこれだけだった。
人物写真は苦手な様子でセピア色になる程度。草木や河などの自然が写っているとそれっぽくカラー化できる気がする。
あと、元写真の解像度もカラー化精度に影響するのだろうか。ここには載せていないが、50年代の写真はもっと高品質にカラー化できた。
カラー化精度がたとえセピア色+α程度であっても、元の白黒写真と比べると雰囲気が出る。白黒では見逃してしまうディテールに目が行くことも。なにより、こうして古い写真を見て亡き祖父を思い出せたのは良いことだった。
や、ここまで手軽なツール化をしていただいた研究チームには本当に感謝するばかりである。敬意を表して自動カラー化サイトのリンク再掲。
祖父は上海で終戦を迎え、捕虜になった後、1946年1月に復員する。生前祖父は戦争中のことをたくさん話してくれた。今になって、もっと話を聞けばよかったと悔やまれる。
それでも、捕虜の話や、現地中国人との交流、現地で罹った病気のこと、真珠湾攻撃を知った時の気持ち、乗っていた列車が爆撃されたこと、復員に際し鹿児島から故郷に戻る列車でミカンをたらふく食べたこと、などなど多くの話を聞くことができた。
子どものころ、農作業から戻って私が鍬やらシャベルやらを洗っていると、洗い残しの土のこびりついたのを見て「兵隊ではこんな風に汚れが残ってたら殴られたもんだ。きちんと洗え」とたしなめた。私は「ここは軍隊じゃねーよ」と心の中で舌打ちしたが、当時の日本陸軍の内情をその後知って、祖父の当時の苦労に同情した。
ひとつ思うのは、メディアの報道や特集番組と、祖父の体験談とが微妙に食い違うことだ。そりゃ祖父も記憶にバイアスはかかっているかもしれないが、特に現地中国人との関係など、実体験を聞くことができたことは貴重だった。
思い出話から、祖父はこんな教訓を私に遺した。
爆撃機がやってきて、自分の真上で爆弾を落とした場合にはそのまま流れていくから逃げなくてよい。注意しなければならないのは、自分に向かってくる機体が爆弾を落としたときだ。
幸いにして私はこの教訓を確かめる場面に遭わずにいる。
これからもそうであってほしいと願う。