いなたくんへ
人生をやり直せたら、というのは誰もが思うことだろう。
高校の部活、受験する大学、あのときあの人とこうしていたら。
そうした「if」のひとつには職業選択もあるだろう。
私はいま知財業界に身を置いているが、人生をやり直したとしてもう一度知財業界を目指すだろうか。弁理士試験を受けるだろうか。これは何度も考えてしまうテーマだ。
正直、「強くてニューゲーム」なら次のリプレイ人生でも知財に進んで「オレTUEEEEEEEEEE!!!!」やるのも悪くないけど、脳みそリセットされて再度あの試験とか下積みとかやるのはちょっとな……という気もしないでもない。
とはいえ、「知財業界に入ってよかった!」と思えることは確実にある。それはそれ以前の人生との比較において、私が知財業界に入って初めて体験できたことだ。
後で説明する通り、実際には知財以外の職種でも多かれ少なかれ似た考え方はするかもだけど、私としては、それは知財という業界に入ることで初めて得られた景色だった。
ということで今回はそんな「初体験」の話をしたい。
本日7月1日は弁理士の日。@dokugakuさんのブログ「独学の弁理士講座」にて、弁理士の日を勝手に盛り上げる「弁理士の日記念ブログ企画2019」なる企画が開催され、今年のテーマは「知財業界の初体験」なので、私もこの記事にて参加する次第である。
私は理系大学に進学したものの、このままエンジニアに進むのでいいんだっけ、な疑問に駆られた。特に、大学1年次にプログラミングやHW製作を行う同級生を見て「勝てない」と思ったことが大きかった。
他の友だちにはない、何か強みが必要だ。そうだ、何か資格を取ろう。
ということで安易に資格試験に逃げ、弁理士になり、せっかく弁理士なんだし知財に進むか、ということで知財業界に入った。
そういう成り行きではあったのだけど。知財業界は私に新しい景色を見せてくれた。
端的には、「正否」「当否」「適否」の3つの世界である。
エンジニアリングは基本的には科学や技術や科学技術に立脚していて、それは再現性のある法則の上に成り立っているということである。つまり、純粋な技術の問題においては、「正しいか否か」を答えることができる。
もちろん技術の問題に落とし込むこと自体が難しかったり、未解明でわからないこと、統計的にしか答えられないこともあるのだけど、基本的には、そこには「正否」が存在する。
私がいた理系の世界というのは「正否」の世界だったし、大人になった今も、当時の友人たちは「正否」の世界に生きていると思っている。だから彼らは正直だし、合理的だ。
プログラムによく似たものに「法律」がある。ある変数(法律要件)に応じて出力(法律効果)が定められ、ある条文は定義を宣言し、またある条文は他の条文を参照し、あるいは法律そのものが他の法律のサブクラスであったりする。
法律がプログラムと異なるのは、それが現実という複雑系を扱う点だ。法律は揺れ動く現実世界の全てを記述することはできなくて、人間の起こす様々な事象を、あるいは人間特有の多面性を、なんとか「解釈」を用いてこなそうとする。
必ずしも唯一無二の正解はなく、それが「妥当であるか否か」の当否の判断があるのみである。
最も自由度が高いのが経営の判断だ。経営、というと大仰だが、例えば仕事が終わって疲れて家に着いて「何をするか」とか、じゃあビール飲んでくつろぐことに決めたと思ったら風呂場が爆発して黒ずくめの不審者が闖入してきて「さあどうするか」とか、環境や他者がある中での、その場その場での判断である。
そこに正解はなく、当否を決める定式的な基準もない。あるのは、それがその状況において「適切であるか否か」の判断である。
説明するまでもないが、知財は「正否」「当否」「適否」の3つを扱う仕事である。
知財業界に入ることで初めて、私は「正否」のみならず「当否」「適否」の世界に触れた。
判断基準が変われば人も変わる。それぞれの世界には、それぞれの考え方に適応したそれぞれの人たちがいて、そうした人たちとの関りも私には新しかった。
「正否」「当否」「適否」の3つを使うのは何も知財に限らないぜ、とツッコまれれば、それはその通りである。
例えばエンジニアでも、標準仕様や準拠法は押さえるだろうし(当否の判断)、経済活動である以上は外部環境や競合は調べて価値提案キャンバスくらい描くだろうし(適否の判断)、いっしょである。
広告とか、報道とか、あらゆる仕事においてもこの3つの世界に関わることはあるだろう。
その点では、これは知財の専売特許(知財だけにwww)とは思わない。あくまで私が私的な体験として得た感動である。
そう。とはいえ、である。とはいえ知財は特別な立ち位置にあると思う。
知財法の専門家として当否判断に立脚しつつ、様々な領域の技術を広く扱い、かつその活動は競争戦略上の要請に直結する。
足場が「当否」のところにあるのもポイントで、技術に対しては、純粋な技術的解決から経営戦略上の差異化要素(それは必ずしも技術的に高度とは限らない)まで、抽象度のダイナミックレンジを広く持つ。
さらに言えばこの「当否」は、その技術的解決が果たしてクリティカルであるか、という、技術の価値そのものを(ひとつの側面として)測るものであったりする。
そもそも弁理士として当否の世界の奥深さを知り、その上で正否の世界を広く俯瞰し、適否の世界と深くかかわる、ということは、知財業界に入ることで得られた私の「初体験」であった。
さて、改めて冒頭の仮説に戻ろう。人生をやり直したとして、もう一度知財業界を目指すだろうか。
私としては、エンジニアに進まなかったことには未練がある。やっぱり自分で物を作る、というのはやりたいんだよね。ソフトウェアであれば(今やハードウェアであっても)そのハードルは限りなく低くなっていて、知財業界に入らずそちらに進んでいたら、色んなものを作っていただろうと思ってしまう。
その一方で、モノを作るのに重要なのは実装工程そのものよりは、その一段前にあるということもわかってきて、そこではむしろ知財の経験をこそ活かせることも多分にありそうなので、そうするとまあ知財も悪くなかったかな、とも思ったりする。
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ということで、「弁理士の日記念ブログ企画2019」の一環としてテーマ「知財業界の初体験」で思うところを述べてみた。
前回の参加記事はこちら(テーマは「知財業界でホットな物(又は新しいもの」)。