映画『チャッピー』は人工知能ではなくコネクトームを描いた英雄神話(ネタバレあり)

いなたくんへ

てっきり人工知能の話と思って観たら、本作のテーマは違ったようだ。映画『チャッピー』(2015)は「人工知能の成長」を超えて、コネクトームにまで言及した作品だった。以下に感想を述べたい。

評価を先に言うと、SFとしては及第点、エンターテイメント作品としては十分に楽しめる出来だった。ミチオ・カク著『フューチャー・オブ・マインド』(2015)が副読書として参考になりそうなので、本書の内容も紹介しつつ振り返ってみる。

また、現実世界という「死者の国」での試練を乗り越え、人間の正体がコネクトームであることを明らかにする本作の筋書きは、英雄神話にもよく沿って作られている。神話論の観点からも、チャッピーが世界にもたらしたものの意味を考えてみた。

※ネタバレを含みます。

 

揮発性の意識「コネクトーム」をめぐる物語

まずは本作の簡単なあらすじから。

治安の荒む南アフリカ・ヨハネスブルグでは、「スカウト」と呼ばれるロボット警官が導入され、一定の成果を挙げていた。スカウトを開発したのが、兵器メーカーTetravaal社に勤めるディオンだ。彼はプライベートでも人工知能開発を行っており、ついに完成させ、廃棄予定のスカウトに組み込む。ところが、人工知能をインストールされたスカウトはギャングに強奪され、「チャッピー」と名付けられて、彼らに育てられることになる。

CHAPPIE / チャッピー [Blu-ray]

監督は『第9地区』(2009)『エリジウム』(2013)ニール・ブロムカンプ。彼独特の荒廃した世界観は、後述する「死者の国」としてのヨハネスブルグを引き立てている。

「肉体」の危機が人工知能の自我を育てた

物語の前半では、生まれたての人工知能「チャッピー」が知性を育む過程が描かれる。物の名前や言葉を覚え、人とコミュニケーションを通して、人格を獲得していく。ここで重要になるのが、彼が肉体に痛みを受け、「命」が危険にさらされるシーンだ。

それまで丁寧に育てられていたチャッピーは、ギャングの教育方針から、社会の現実を知らされることになる。少年たちのたまり場に置き去りにされたチャッピーは、彼らに襲われ火炎瓶を投げつけられる。さらには兵器メーカーでスカウトの対抗機「ムース」を開発するヴィンセントにも捕まり、腕を切断され、「殺され」かける。

人間と異なり老化せず、(プログラムされていない限り)生殖本能もない人工知能は、目的を持たない。目的がなければ成長の必要もない。ところが、自らの肉体に危険が及び、死に直面することで、チャッピーは「自己保存」の必要に気付かされる。

死の概念を理解するからこそ、「生きる」という目的が生まれる。目的があるから成長でき、矛盾や葛藤が生じて、感情が育つことになる。チャッピーの死への直面は、チャッピーが自身の成長に向き合うきっかけとなる重要な儀式だったと言える。

CHAPPIE

チャッピーはその後アジトに帰還し、ヨーランディに慰められる。しかし、ボディのバッテリが交換不能であり、死の恐怖が去ってはいないことを知る。「生きる」という目的は物語の最後まで失われない。

シミュレーション・ソフトウェアとしての「意識」

ところで本作では、「意識」はそれ単体では存在できず、肉体が不可欠であるように描写されていた。ボディのバッテリ寿命を迎えるチャッピーに対し、開発者ディオンは、肉体が失われたあとではチャッピーの意識を再現できないと告げる。意識とは揮発性のものであり、保持するための器が必要なのだ。

意識にとっての肉体の重要性は、『フューチャー・オブ・マインド』(2015)でも触れられていた。本書は物理学者ミチオ・カクによる、脳科学・神経科学の見地から「心」の正体を探った一冊だ。

フューチャー・オブ・マインド―心の未来を科学する

本書では、人間の脳を肉体のない機械(電子脳)に移すことについて述べている。その場合にどうなるかというと、感覚が遮断され、脳の中に「閉じ込められる」ことになり、苦しみ、精神疾患の兆候を示すはずだというのだ。

これは、人間の意識が外界からの刺激により成り立つ、という著者の仮説に起因する。本書では、我々の持つ「意識」を次のように定義している。

意識とは、目標(配偶者や食物や住みかを見つけるなど)をなし遂げるために、種々の(温度、空間、時間、それに他者との関係にかんする)パラメータで多数のフィードバックループを用いて、世界のモデルを構築するプロセスのことである。

『フューチャー・オブ・マインド』より

要するに「意識」とは、現実世界の複雑な事象を認識し、種の保存や生存といった目的のために肉体を適切に動かす、そのためのシミュレーションであるわけだ。身の回りにある空間とその変化、社会を構成する人間関係、過去の経験に基づく未来予測、我々はこうしたシミュレーションを行うことで、最適な次の一歩を選択できる。
例えば感情も「意識」を構成する重要な機能の1つだ。感情は次の行動を決めるにあたってバイアスをかけ、意思決定を素早くさせる(場合によっては意思決定を阻害することもあるし、感情により促された意思決定が最適ではないことも多々あるけど)。

外界をどう認識し、肉体の行動をどう決めるかは、シミュレーション・ソフトウェアそれぞれで異なってくる。我々はこれを「個性」と呼ぶ。

人間と同質であるチャッピーの「意識」

ここでは『フューチャー・オブ・マインド』の仮説に従い、人間の意識の正体が「外界に対するシミュレーション」であると考えてみる。

チャッピーが肉体の損傷・喪失を怖れたことは、肉体が意識の容れ物であることはもちろん、シミュレーションのためのインターフェイスとして不可欠なものだったからではないか。インターフェイスが失われれば、外界に対する正常なシミュレーションが阻害され、意識にとっては苦しみとなる。つまり彼の「意識」もまた、外界とのシミュレーションを担うものなのである。

本作では、チャッピーが襲われるシーンの恐怖感をもって、チャッピーにとっての肉体の喪失が、我々人間と等しい意味での「死」や苦しみであることを描いていた。このシーンがあることで観客は、「機械に死は関係ない」「機械なので傷つけられても平気」「機械は人間とは全く別の存在」ということではなく、彼もまた我々と同じ「ような」命を持つらしい、とを知ることになる。

チャッピーの「意識」が人間のそれと同質であることは、クライマックスに向けての重要な伏線となっている。また、後述する神話論の観点からも、チャッピーの「意識」は人間のそれと同じものでなくてはならない。

人工知能も人間も、その本質は等しく「コネクトーム」にある

本作のクライマックスは何といっても、致命傷を負った開発者ディオンが「意識」をスカウトに転送し、機械の身体を手に入れるシーンだ。

ボディのバッテリー切れにより肉体を失おうとしていたチャッピーは、脳波コントロール型ロボット「ムース」を操るためのヘッドギアと、クラスタリングされたPS4を用いて、「意識」の抽出に成功する。この抽出を瀕死のディオンに行うことで、彼の意識をヒトの身体から機械の身体へと移した。
チャッピーもまた同じ方法で自身の「意識」を別のスカウトに転送し、再会した2人はヨハネスブルグの街に消える。

【映画パンフレット】チャッピー Dev_Patel_at_PaleyFest_2013
「スカウト」の開発者ディオン(右:画像は俳優のDev_Patel)はヒトの肉体を捨てる

人工知能の成長譚と思われた本作は、このラストシーンによって、人間自身の物語へと変わる。物語の前半では、チャッピーのもつ揮発性の「意識」が、どうやら我々人間のそれと同じ「ような」ものだと提示されていた。そしてクライマックスでディオンがヒトの身体を捨て、機械の肉体を手に入れることで、我々の「意識」はチャッピーと同じ「ような」ものではなく、全く同質であると明らかにされる。

このとき提示されるのが、人間の身体が機械と交換可能であるならば、人間を人間たらしめるものは何か、という疑問だ。
生身の肉体を捨てたディオンは人間と言えるのか。生身の肉体から「意識」が抽出可能であるとして、ハードウェアを転々とする「意識」とは一体何なのか。ディオンは「死」を超越した存在になったのか。

本作では、敢えて人間ならざる存在のはずの人工知能の成長を描き、最後に人間と人工知能が同じ存在であると明かすことで、人間の本質が何であるかを問いかけている。

『フューチャー・オブ・マインド』では、肉体から抽出される情報体を「コネクトーム」と呼ぶ。人間の脳には約1ZB(ゼタバイト=1億ギガバイト)の情報が詰められており、この「コネクトーム」こそが人間の正体なのだ。本書では、記憶や脳機能の外部化に関する最新の研究を紹介しており、いずれは人が0/1のデジタル信号として肉体を離れる未来を予想している。これについては次の記事でも紹介した。

「チャッピーの成長物語」であった本作前半、弾丸を跳ね返すスカウトのボディは頼もしく、デザインもカッコよく見えたし、スター・ウォーズのドロイド兵のようなコミカルな面影も感じた。いずれもガジェットとしてみたチャッピーの評価だ。意識が芽生えたにせよ、あくまでチャッピーはロボットであり、道具の一種だった。

ところがディオンの意識がインストールされ、スカウトのボディがディオンの、つまり「人間」の身体となったとき、彼の姿をグロテスクに感じたのは私だけではないはずだ。
仮に人間の本質が1ZBのコネクトームにあるとしても、ヒトとは全く別の肉体を手に入れたそれを、引き続き「人間」と呼んで良いのかどうか。

ところで、本作が人間自身の物語であるとするなら、チャッピーはどのような意味を持った存在だろう。クライマックスに向けての噛ませ犬だろうか。もちろんそんなことは無い。本作を英雄神話としてみたとき、チャッピーこそが神話の主人公たる英雄である。

 

チャッピーは世界を救い改変した神話的英雄である

ジョセフ・キャンベルの神話論は有名なので、物語の解釈に使うにはベタすぎるかもしれない。しかし『チャッピー』は英雄神話として非常によくできていたので、当てはめを試みてみる。

まずはキャンベルの神話論の紹介から。なお、ブログ記事では「松岡正剛の千夜千冊」もよくまとまっている。

キャンベルの神話論

古今東西の神話・伝説から共通項を抽出し、物語の基本構成をまとめたのが、ジョセフ・キャンベル著『千の顔を持つ英雄』(1949)だ。これに感銘を受けたジョージ・ルーカスが神話のプロットを下敷きに『スター・ウォーズ』を撮ったのは有名である。

千の顔をもつ英雄〈上〉 千の顔をもつ英雄〈下〉

キャンベルの英雄神話によれば、神話・伝説は次の3部に分けることができる。

  • 1.セパレーション(分離・旅立ち)
  • 2.イニシエーション(通過儀礼)
  • 3.リターン(帰還・再生)

「1.セパレーション」で、英雄は日常世界から、人為の遠く及ばぬ超自然的な領域に赴く。
英雄ははじまりの時点では未だ幼年期にあり、大人になることを拒否して逃走するか、あるいは周囲の者が大人になることを引き留める。
その後、死に誘われた英雄を、母性のもう一つの形としての庇護者が目覚めさせる。目的を自覚した英雄は境界守と対決して、越境し、死者の国・未知の世界に旅立つ。越境において英雄は、ときに自己消滅の危機さえ伴う。
越境先の「死者の国」は、例えばピノキオでは鯨の胎内に相当する。

「2.イニシエーション」で、英雄は赴いた領域で超人的な力に遭遇し、変転を経て、決定的な勝利を収める。物語の中心部分であり、主人公が英雄になるべく転身するプロセスが描かれる。
「死者の国」で英雄は女神と遭遇して癒され、これと結びつく(姦淫する)。さらに英雄は父を殺すことで父の真実の姿を知り、理解し、父との一体化を果たす。この母と父を象徴的に殺すプロセスが、英雄を1人の成人に変える。言うまでもないが、『スター・ウォーズ』ではダース・ベイダーとの対決がこれにあたる。
このとき、世界模型の全貌が明らかになり、英雄は穀物の種や酒、ミルクといった恩恵を地上にもたらす。

「3.リターン」で、英雄は従う者に恩恵を授ける力を得て、不思議な冒険から帰還する。
このとき、英雄は帰還をためらい逃げ出すものの、外界からの超常的な助けを借りて、空間と時間の仕切りを越えて帰還に至る。帰還において、英雄自信が実は神の仮の姿であったという結末が描かれることもある。英雄の帰還により、そこま全く新たな王国として活気に満ちる。

境界を越えて辿り着いた「死者の国」ヨハネスブルク

キャンベルの神話論に『チャッピー』を当てはめるとどうなるか。

チャッピーは生まれた時点では赤ん坊と変わらない精神であり、ディオンやヨーランディに優しく育てられようとしていた。ニンジャの要求も怖がり拒絶する。
しかし、チャッピーはニンジャのスパルタにより自己消滅の危機に直面し、現実世界の様相を理解する。さらには、自身の寿命の短さを知り、この世界で生きていくための目的を得る。バッテリが切れる前に新しい身体を手に入れ、死を回避するのだ。

英雄神話における未知の世界、「死者の国」に相当するのは、我々が生きる現実世界だ。スカウトのボディにインストールをされ産声を上げた人工知能は、死への直面をきっかけに境界を越え、現実世界を認知する。荒廃したヨハネスブルグの街で、チャッピーは死の恐怖を抱えながら、試練を乗り越えようとしていく。

チャッピーが一体化する「父」とは誰か

神話において英雄は、父を倒し、一体化しなければならない。本作における「父」は誰だろうか。候補は2人いる。チャッピーを開発した「生みの親」ディオンと、ギャングの世界を身をもって教えた「育ての親」ニンジャだ。

これについて私は、チャッピーの父はディオンであると考えたい。

キャンベルの神話論によれば、死者の国における父殺しは、畏怖・脅威の対象としての「大いなる父」をどのように理解するかがテーマである。
チャッピーは当初ニンジャの言いつけに従い、強盗などの悪行を働きつつ、最後に自身が騙されていたことを知る。この過程でチャッピーはニンジャと行動を共にするものの、理解したとは言えないし、最後にはニンジャの思想とも決別している。ニンジャを殺すこともしない。
ニンジャはむしろ、チャッピーを死者の国(=現実世界)に招き入れて案内をする、境界守としてのキャラクターにあたるだろう。『スター・ウォーズ』でいうところのオビ=ワンだ。

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ニンジャ(左:画像は俳優のニンジャ)と、悪事を働くギャングスタ・チャッピー

一方ディオンはどうか。チャッピーは当初、バッテリ切れによる「死」の原因を作ったのがディオンであり、ディオンが自分の敵であると認識する。ディオンはチャッピーにとって、自らを創造した畏怖の対象であるとともに、死をもたらした驚異の対象だ。
しかし物語が進むと、チャッピーはディオンとの和解を果たす。和解のあと、重傷を負ったディオンの肉体から意識を吸い出し、象徴的にディオンを殺す。ディオンの意識はチャッピーと同じスカウトのボディに移し替えられ、「人間」と「機械」という両者の間にあったはずの境界が失われる。これがディオンとチャッピーの「一体化」である。

ディオンはスカウトの身体を得ることで、肉体的にはチャッピーと同質になる。このとき、ディオンとチャッピーの一体化を描くならば、両者がハードウェアだけでなく、ソフトウェア的にも同質であることを示さねばならない。だからこそ本作は物語前半でチャッピーの「意識」と、その成長プロセスを描き、チャッピーがソフトウェア的にも人間と同質であることを示していたのだ。

なお、英雄神話では一体化のプロセスで、父に対するアンビバレントな神格化が起こり、両性具有のキャラクターが現れることもあるという。スカウトの身体を得たディオンは確かに、肉体的な性別を失っている。

英雄神話『チャッピー』の結末でもたらされたもの

ちなみにチャッピーは、「女神」であり「母」であるヨーランディも象徴的に殺している。脳波コントロール用のヘッドギアを用いて、ヨーランディの「意識」をUSBメモリに移した行為がそれだ。
USBメモリは物語の最後にニンジャによって発見され、ヨーランディはスカウトの自動工場で再生を遂げる。母であったはずのヨーランディは、最後にはチャッピーにより産み出されることになるのだ。ヨーランディもチャッピーと一体化したので、象徴的な姦淫といってもいいかもしれない。

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チャッピーのよき庇護者だったヨーランディ(画像は女優のヨーランディ)は凶弾を浴びるが‥

チャッピーが死者の国から持ち帰った果実とは、意識の抽出、すなわち人間のコネクトーム化であった。コネクトームの抽出ができれば、人間はヒトの肉体を離れ、永遠に生き続けることも可能になる。これにより現実世界から寿命が取り払われ、死者の国は全く別の世界に書き換えられた。

地上に不老の果実をもたらし、死を超越したチャッピーは、英雄と呼ばれるにふさわしい。このように映画『チャッピー』は、死者の国にやってきたチャッピーが世界を変える英雄神話とみることができる。

 

まとめ

最後にダメ出しも含めていくつか、全体的な感想を。

ライバルが脳筋、ボスが無能というのはいただけなかった

本作で残念だったのが、ディオンのライバル開発者ヴィンセントの脳筋ぶりと、女社長の無能さだ。ヴィンセントが軍務経験者で肉体派なのは構わないけど、いくらなんでも人間的魅力がなさ過ぎた。アムロのライバル・シャアが「サイコミュ最強だぜゲハゲハゲハ」とか言ってたら台無しだろう。

先端企業のトップが無能というのもリアリティがなかった。このあたりは『エリジウム』でもがっかりしたところ。

もっとも本作の趣旨はライバルとの切磋琢磨にはないので、ヴィンセントもマクガフィンの1つと割り切ってしまった方が良いのかもしれない。次回作ではもう少しクレバーなライバルを期待したい。

SF的の新規性はなかったが、エンターテイメント作品として高評価

技術的には、ちょっと首をかしげる描写もいくつかあった。例えば、人間の脳波を検出するためのヘッドギアでチャッピーの脳波が読み取れたり(仮にチャッピーが意識を持つとしても、ハードウェアが異なるなら検波方法も異なるはずだ)、ディオンの肉体が意識を吸い出された途端に死んだり。
ただしこのあたりにツッコむのは無粋で、これもマクガフィンとして見るべきだろう。本作が描いたのはあくまで、人間の本質が人工知能のそれと変わらず、抽出可能な情報体に過ぎないという仮説だ。

この仮説自体は、『フューチャー・オブ・マインド』や過去のSF作品で提示されており、SFのアイディアとして新規性があるとは言い難い。
その一方で、こうした未来像をリアリティのある世界観として提示し、エンターテイメントに落とし込んだ点は、やはりブロムカント監督の面白みだと思う。

「英雄神話」はテクノロジーがもたらす未来の描写に相応しい

今回キャンベルの神話論に当てはめてみたが、英雄神話は物語作りの基礎なので、実は大体のストーリーが、特にハリウッド映画に対しては当てはまってしまう。その意味で今回の神話論への当てはめは予定調和と言えなくもない。しかし、テクノロジーをキーとした物語が英雄神話として描かれることには、一定の意味があると思う。

『フューチャー・オブ・マインド』の紹介でも述べたとおり、コネクトームの抽出は起こりうる未来だ。抽出とまではいかないが、人間能力の人工的な強化や、脳機能の外部化は、すでに行われようとしている。

テクノロジーの加速度的発展は、我々の見知った世界を大きく書き換えようとしている。人間の存在が今の我々の知るそれと変わってしまう未来は、神話における世界の改変にも劣らない変化をもたらすだろう。
その変化の大きさゆえに、テクノロジーが変える未来は、神話のプロットで描かれることが相応しい。映画『チャッピー』はその王道を行く物語だったと言えるだろう。

結局のところ一番の見所は「テンション」

長々と感想を述べたものの、本作の一番の見所はと言えばやはり「テンション」だ。本作はニンジャとヨーランディの音楽ユニットダイ・アントワードのPVに過ぎないという意見もあり、まあおおむね賛成だ。

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神話に沿ったプロットや、「コネクトーム」というモチーフの面白さもあるものの、本作はやはりブロムカンプ監督の描く世界観と、個性的な俳優たちにより成功していた。

次回作にも期待を寄せたい。

 

CHAPPIE / チャッピー [Blu-ray] フューチャー・オブ・マインド―心の未来を科学する 千の顔をもつ英雄〈上〉

 

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