「心」のリバース・エンジニアリングがヒトを「ポストヒューマン」に変える(『フューチャー・オブ・マインド』書評)

いなたくんへ

脳科学・神経科学の見地から「心」の原理を探る『フューチャー・オブ・マインド』(2015)について、紹介を続ける。脳の進化に伴う「意識」の変化から人工知能の知性をベンチマークできること、脳をハックしての人の能力の拡張については、次の記事で紹介した通り。

脳構造や「心」の原理解明がもたらす可能性について、著者はさらに踏み込んで描いている。それが脳機能の外部化であり、人が人間の身体を捨てる未来だ。非常にSF的であるが、本書を読むと、全くあり得ないわけでもなさそうだとわかる。この未来の実現可能性について考えてみる。

フューチャー・オブ・マインド―心の未来を科学する

Summary Note

記憶の消去、改ざん、デジタル保存

  • 記憶プロセスの解明により、記憶能力向上、記憶の消去、ニセの記憶の植え付けが実験レベルで成功している
  • 記憶の格納箇所は未解明だが、海馬を介して脳全体に分散記憶されている可能性がある
  • 記憶のデジタル保存は可能だが、脳全体の外部化実現は今世紀末
  • 外部化された記憶の巨大な記憶ライブラリが形成される

脳機能外部化の道筋と、人のコネクトーム化

  • 欧州ヒューマン・ブレイン・プロジェクトは、脳機能のコンピュータ・モジュール化を目指す
  • 米国BRAINイニシアチブは、脳の神経経路地図作成を目指し、15年以内にマウスの新皮質全体に相当する領域をモニターする
  • 脳のハードウェア構造の解明は、意識を実現するアルゴリズム解明のための一歩になる
  • 将来、ヒトは1ゼタバイトの情報体「コネクトーム」になる

テクニカル・シンギュラリティはポストヒューマンの手で起こる

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記憶の消去、改ざん、デジタル保存

脳内の情報と言ってまず思いつくのが「記憶」だ。記憶の原理が明らかになれば、外部から記憶を制御でき、あるいは記憶の外部化もできるようになるかもしれない。

記憶のプロセス解明による記憶能力の向上

我々はどのようにして物事を覚えるのか。研究によれば、記憶で重要なのは「覚える」プロセスではなく、「忘れる」プロセスかもしれないそうだ。

本書では、ショウジョウバエのDAMB受容体を変異させ、忘却力を減じた実験を紹介していた。DAMB受容体は忘却にあたり活性となるドーパミンである。ちなみに新しい記憶の形成では、dCAI受容体が活性となる。
この実験は、忘却が、記憶が自然に風化し失われるものではなく、ドーパミンを介在した積極的プロセスであることを示すという。DAMB受容体がなければ、脳内の情報を「忘れる」ことができなくなるのだ。

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記憶の形成に関しては他にも、ニューロン間の接続形成を刺激するCREBアクティベータと、記憶形成を抑制するCREBリプレッサの2つのタンパク質の存在が紹介されていた。MEM14114は、CREBタンパク質の産生を加速することで記憶力を高める薬(実験中)だ。

記憶の消去と、ニセの記憶の植え付け

すでに形成された記憶の消去は可能だろうか。

記憶の呼び起こしでは、記憶の検索と、その後の再組み立ての両方が必要となる。この過程では脳内のタンパク質構造も物理的に組みかえられている可能性があり、組みかえを阻害すれば、記憶の呼び出しができなくなる。これは記憶の消去と同じ効果を持つことになる。
具体的には、長期記憶形成で必要になるアドレナリンの吸収を阻害して記憶を失わせる薬や、CaMKIIたんぱく質、PKMゼータ分子などの具体的な薬が紹介されていた。

消去だけでなく、偽りの記憶を植えつける実験も紹介されていた。2013年のMITによる実験で、マウスの脳内の特定ニューロンに光を当てて活性化させ、ショックの記憶を植えつけたというものだ。この実験は次の記事でも紹介されている。

また、最新の実験では、過去の記憶の組み合わせにも成功している。

グルマンディーズ ドラえもんアンキパンiPhone4/iPhone4S共用ジャケット DR-10A
記憶を人工的に植えられるなら、アンキパンの実現も夢ではないということだ

記憶はどこにしまわれているのか

このように、記憶と忘却のプロセスが明らかになることで、記憶の制御ができるようになっている。工学的に記憶力を上げたり、記憶の消去や改ざんができるというのは、驚くべき技術だ。
ところで、記憶は脳内のどこに保存されているのか。残念なことに、これについては未だ解明されていないという。

仮説の紹介はあった。記憶は1箇所にまとめて保存されるのではなく、記憶を構成する要素毎に分解され、脳内の各部位に散らばって保存されるというものだ。例えば感情の記憶は扁桃核に、言葉は側頭葉に、視覚情報は後頭葉に、身体の動きは頭頂葉に。分解された記憶のかけらを各部位に導くのが海馬である。

ばらばらに記憶されたかけらの再構築、「結びつけ問題」の解明は、今後の研究成果を待たねばならない。例えば、脳全体は約40Hzの電磁振動を持つところ、記憶のかけら同士も固有の周波数を持っていて、その厳密な周波数で振動し、共鳴することで、思い出されるのかもしれない、としている。
記憶の保存・再生の原理は興味深く、今後の研究成果に期待したい。

記憶のデジタル保存と記憶ライブラリ

上記の仮説に従えば、記憶は保存されるにあたり、海馬を通って各部位に振り分けられることになる。
この海馬内のニューロン群CA1, CA3の信号を電子デバイスに記録することで、記憶をデジタル保存した実験が紹介されていた。2011年にウェイクフォレスト大と南カリフォルニア大によリ行なわれた、マウスを使った原理証明実験だ。
実験ではさらに、薬でマウスの記憶を消したあと、デジタル記録していた記憶をマウスに戻して、記憶を再現することにも成功したという。

本書はこの成果をもとに、霊長類の人工海馬が実現すると予想する。海馬の詳細な神経マップを作成して、海馬に流れる信号を正確に記録できるようにするわけだ。
ただし実際には、視覚だけでも何十億のニューロンが活性し、一秒あたり数100ビットの情報が送られている。こうした生の感覚データを処理し、脳に入る刺激をまるごと記録できるのは、今世紀の終わり頃になるそうだ。

著者は、記憶の外部化技術が確立すれば、未来のウェブの姿が変わることも予想している。それは、出来事だけでなく記憶をも記録する、巨大なライブラリーだ。
死んだおじいちゃんの20代の頃の悩みも、ググれば出てきて「なあんだ、同じようなこと悩んでたんだ」とかホンワカできるかもだし、知らなきゃ良かったと後悔するかもわからない。

Pen, Diary and Glasses
故人の尊厳を守るためにも、遺された日記、ハードディスク、そして記憶データは消去したい
(画像:Generationbass.com)

ブレインネットによる未来のシミュレーション

以上が、本書で述べられていた記憶に関する研究の最前線と、今後の展望である。記憶の操作や外部化が、原理レベルとは言え解明されつつあり、マウスで成功しているというのは、ちょっとショッキングな成果だ。
欲しい能力や記憶をいつでもインストールできれば、人の能力の定義も変わるだろう。他人にハックされて改ざんされたり、自分を含む人の記憶のどこまでが真実なのかを信じられなくなるなど、社会的な問題も大きそうだ。もっともこうした議論は、新しいテクノロジーの登場で常に起こる類のもので、数年も経てば受容されるのかもしれない。

ところで記憶の目的について、おもしろい仮説が紹介されていた。「記憶の目的は、未来を予言することにある」というものだ。

人は他の動物と異なり、未来をシミュレートする意識を持つ。ここで、記憶を呼び出すのに使われる脳領域(背外側前頭前皮質と海馬を繋ぐ部分)は、未来をシミュレートするための領域と同じであるという。記憶喪失患者の多くが、将来何をするかや、翌日にすることさえも思い浮かべられない、という事実とあわせて紹介されており、興味深い仮説だった。

もしも未来のシミュレートが過去の記憶に基づくならば、人の記憶を集めたライブラリや、脳同士を繋いだブレインネットを用いることで、未来予測を高度に実現できるかもしれない。ただし、『楽観主義者の未来予測』(2013)によれば、人間は本能的に悲観的な未来を予測しがちだとされる。思わぬディストピアが予測されることもありえるので、そのあたりは差し引いて評価する必要があるだろう。

 

脳機能外部化の道筋と、人のコネクトーム化

記憶に留まらず、脳の全ての機能を外部化することはできるだろうか。これについて本書は、脳のリバース・エンジニアリングに関する2つの国家プロジェクトに触れるとともに、脳機能の外部化がもたらすヒトの最終形態も予想している。

ニューロンの構造を再現するヒューマン・ブレイン・プロジェクト

欧州の「ヒューマン・ブレイン・プロジェクト」は、トランジスタを用いてニューロンの振る舞いを模倣し、脳と同じ動作ができるコンピュータ・モジュールの構築を目指している。予算は16億ドル。

最初のターゲットはマウスの脳だ。IBMは、14万7千個のプロセッサと、15万GBのメモリをもつスーパーコンピュータ「ブルー・ジーン」により解析が進める。また、スイス連邦工科大学のブルー・ブレイン・プロジェクトでは、脳が決まったモジュールの繰り返し構造であることに注目し、6万個のニューロンからなる新皮質カラムのマッピングを行っている。

ちなみに「ブルー・ジーン」で人間の脳全体をモデリングしようとすると、数千台が必要になり、電力供給に原発1基、冷却に川一本が必要になるという。脳の能力と機械とのギャップを改めて思い知らされる。やっぱり脳みそはすごいらしい。

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脳の神経経路地図を作成するBRAINイニシアチブ

ハードウェア的な再現でなく、ニューロンのマッピングを目指すのは、オバマ大統領が2013年の一般教書演説で述べた「BRAINイニシアチブ」だ。ヒトゲノム・プロジェクトに続く大プロジェクトとして位置付けられ、予算を30億ドルとしている。

最初の5年で数万個規模のニューロンの電気的活動をモニターし、10年後までにショウジョウバエの脳全体規模を、そして15年後までに、マウスの新皮質全体に相当する数百万のニューロンをモニターする計画だ。これにより、霊長類の脳の部位の画像化の道が開かれるという。

ハードウェア構造の解明が、アルゴリズムを明らかにできるのか

何度目かの紹介になるけど、脳機能の外部化と言えば、SFマンガの『銃夢』がおもしろい。本作では肉体を機械に、脳をチップに置き換えた(置き換えられてしまった)人間たちが登場する。そこで提示されるのが、「脳を含む全ての肉体が機械と交換可能であるならば、人間を人間たらしめるものは一体何か」という問いかけだ。これについて本作は、人間とは「記憶」と「人格」という2つの情報に他ならないとし、これらが揮発したときをもって「死」と定義する。

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記憶とはデータであり、人格はアルゴリズムだ。
「記憶」の外部化の可能性は紹介した通りであるが、メカニズムの全貌はまだ明らかになってはない。紹介したとおり、本書『フューチャー・オブ・マインド』では、記憶が脳全体に分散記録されている可能性が示されていた。すると、記憶を完全に外部化するためには、脳全体の動的な共鳴構造がわからねばならない。

人格についても同様だ。感情や理性を司る脳領域がそれぞれ存在し、最終的な「意識」がそのバランスの上に生まれるならば、脳を構成するサブモジュールすべてとその協働のアルゴリズムが解明されて初めて、人格の外部化が可能になる。

Neuroanatomical Connectivity Macaque
Neuroanatomical Connectivity Macaque / Arenamontanus

ところで、脳の駆動は静的なプログラムによるものでなく、外部の刺激を受けて常にリワイヤリングされ続ける、動的プログラムによる可能性が示されている。すると、脳のハードウェア構造や神経経路地図が明らかになっても、その上に載るアルゴリズムまでは解明できないのではないか。インテルのCPUチップの構造や、ハードディスクの素子構成が解析できても、その上で動くソフトウェアまでは(ソフトウェアの原理を知らなければ)再現できないように。

この疑問は本書でも触れており、「猫の脳を(機械で)再現したとしても、記憶も本能的衝動もなく、ネズミを捕まえることはできない」と指摘している。結局のところ、人間の正体が「記憶」と「人格」というソフトウェアであるならば、ハードではなくソフトウェアが解明されなければならない。

人がゼタバイトの情報体「コネクトーム」になる未来

とはいえ、今だ謎の多い脳のハードウェア構造の体系的が明らかにされることは、その後の研究開発のための大きな一歩になるだろう。少なくとも、機械による脳構造の再現に道筋がつけば、次のステップとして「意識」を駆動するアルゴリズムの解明がされ、、脳機能の外部化が実現できるかもしれない。

その先に待つのは、人が肉体を離れ、「コネクトーム」と呼ばれる情報体に変わる未来だ。本書によれば、人の脳の情報はおよそ1ゼタバイト(=1億GB;現在のワールド・ワイド・ウェブの全情報に匹敵する情報量)を持つとされ、人間はこの情報そのものになる。

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Oleg Shynkarenko

0/1信号になってしまえば、寿命から解放される。例えばレーザー信号に載せて遠い宇宙を旅して、目的地で機械の身体に乗り換える、本書はそんな未来も予言している(※もちろん、最初に誰かが目的地に到達し、コネクトームを受信する設備は作らなければならない)。

 

テクニカル・シンギュラリティはポストヒューマンの手で起こる

テクニカル・シンギュラリティ(技術的特異点)は、科学技術の進展が生物学的限界を超えた加速を始めるポイントだ。人工知能やポストヒューマンにより実現されると予想されている。
例えばレイ・カーツワイルは、2045年になると、人工知能の能力が全人類のそれを上回ると予想する。新たな発明が人間の手によらず、機械の強力な処理能力により生み出せるようになると、機械による発明が機械自身を進化させ、発明のスピードが現在とは異なる次元のものになる。

もっとも、人工知能の「知性」は、2045年という時間軸では人間に追いつけそうにない。これは本書の示唆するところである。

もちろん、人工知能が人間並みの知性を備えることの可能性を否定するわけではない。いずれかの時点では、現在の人間と同等の知性を備えた人工知能が生まれるだろう。しかしながら、その時には、人間は次のステップに進んでいる可能性がある。

本書は、脳の解明が、疾病の治療に留まらず、知能の向上や記憶の外部化や人同士のネット接続を可能にし、我々の能力を大きく拡張する可能性を示していた。これら能力を備える新世代の人間は「ポストヒューマン」と呼ぶにふさわしく、テクニカル・シンギュラリティは彼らにより起こされるのではないか。

もっとも、その行き着く先には、ヒトが1ZBの情報体と化す未来が待っている。ヒトのポストヒューマン化の過程では、人間の定義を巡る論争も起こるだろう。
人間とは「人格」と「記憶」から成る情報にすぎない、という定義が正しいとしたとき、人間からそれ以外のものを削ぎ落とす作業は、すでに始まっている。

 

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