いなたくんへ
少し前から、SFを用いた探索活動が注目されている。例えばIntelが製品開発にSFプロトタイピングの手法を導入したと謳っていたり(2013年)、Microsoftの研究所がSF作家と連携したり(2015年)、といった話があった。
日本では、パワードスーツに関するパナソニック系スタートアップのATOUN社や、自働操船ヨットに関するスタートアップEverblue社がSFプロトタイピングの活用を標榜している。
で、SFプロトタイピングや、これに関連してスペキュラティブ・デザインについて調べてみると、「未来を構想する」ことの重要性が強く言われていたりする。私はこれ自体は強く同意するんだけど、同時に感じるのが「未来予測ってダサいよね」という空気感だ。感じるというか、明言されていたりもする。
……おや?
このブログは未来予測を標榜してきてるんだけど、大丈夫?
ちょっとここらで言い訳というか、立場を明確にしておく必要がありそうに感じたので、今回記事にまとめてみたよ。ブログの存在意義に関わる、というのもあるけどそれより、自分のモチベーションのためにも、「未来を構想すること」に対する未来予測の位置づけを整理してみた。
Summary Note
1.未来「予測」はダサいのか?
2.スペキュラティブ・デザインの射程
3.このブログは「未来予測」を謳ってるけど、大丈夫?
4.イシューは「予測か構想か」の問いではない
山口周著『ニュータイプの時代』(2019)では、「未来予測」について次のように述べている。
コンサルティング会社やシンクタンクには、よくクライアントから「未来予測」に関する相談が来ます。未来がどうなるか? その未来に対してどんな準備をするべきか? ということを検討してほしいという依頼ですが、個人的には実にナンセンスだと思っています。
これだけVUCAな世界になってなお、他人に将来を予測してもらって受験勉強よろしく「傾向と対策」を考えようなどというのは、まさに浅知恵と言うべき典型的なオールドタイプのパラダイムと言えます。
『ニュータイプの時代』より
VUCAとは、現代の特徴であるVolatile(不安定)、Uncertain(不確実)、Complex(複雑)、Ambiguous(曖昧)の頭文字を取った言葉だ。『ニュータイプの時代』では、このような時代においては、経験に基づく予測が無価値化されると述べる。
『ニュータイプの時代』の大事なメッセージのひとつが「予測ではなく構想」だ。アラン・ケイのダイナブックの例などを持ち出しつつ、未来は天気予報のように予測するのではなく、誰かが創り出しているものであり、その「誰か」に自分自身がなるべきである、と指摘する。
私たちを取り巻く環境の変化の多くは、天気のように自然に変わっているのではなく、どこかの誰かがイニシアチブを取って動き始めたことで駆動されている、ということです。
『ニュータイプの時代』より
背景には、これからの時代には「問題提起」が価値を持つ、という仮説がある。問題が希少化された現代においては、顕在化した問題の解決ではなく、自ら「在るべき世界」を構想し、その構想と現状とのギャップを自ら見出さなくてはならない。
問題解決の世界では、「問題」を「望ましい状態と現在の状況が一致していない状況」と定義します。「望ましい状態」と「現在の状態」に「差分」があること、これを「問題」として確定するということです。
したがって「望ましい状態」が定義できない場合、問題を明確に定義することもできないということになります。
(中略)
「問題の不足」という状況は、そもそも私たち自身が「世界はこうあるべきではないか」あるいは「人間はこうあるべきではないか」ということを考える構想力の衰えが招いている、ということなのです。
私たちは「ありたい姿」のことをビジョンと表現しますが、つまり「問題が足りない」というのは「ビジョンが不足している」というのと同じことなのです。
『ニュータイプの時代』より
問題が希少化する世界にあっては、「未来を構想する力」が大きな価値を持つことになります。なぜなら、問題とは「あるべき姿」と「現状」とのギャップであり、「あるべき姿」を思い描くには必ず「未来を構想する力」が必要になるからです。
『ニュータイプの時代』より
私はこれらの考え方に完全に同意する。
未来を構想するためには、どんな方法があり得るだろう。そのアプローチの1つにスペキュラティブ・デザインがある。スペキュラティブ・デザインとは、デザインの言語を用いることで未来の可能性を思索(Speculate)し、切り拓こうとするものだ。
その概説をまとめた『スペキュラティヴ・デザイン』(2015)でも、未来予測は「無駄な行為」であり「興味がない」とdisられている。
科学技術の分野や多くのテクノロジー企業と関わっていると、未来、特に「唯一の未来」といった考え方とよく出会う。多くは未来の予言や予測といったもので、新しい世界の動向や、近未来を仄めかすような兆しに目を向けるものもあるが、「唯一の未来」を突き止めようとしている点は変わらない。私たちは、その種の未来予測にはまったく興味がない。テクノロジーに関していえば、未来予測は何度となく間違いを犯してきた。私たちから見れば、未来予測とは無駄な行為だ。私たちが興味を持っているのは、未来の可能性を考えることである。
『スペキュラティヴ・デザイン』より
『スペキュラティヴ・デザイン』では、未来学者スチュアート・キャンディが示した潜在的未来に関する整理を翻案し、4つの未来の関係を表すPPPP図を示している。ここには、次の4つの未来が登場する。
- 起こりそうな未来(probable)
- 起こってもおかしくない未来(Plausible)
- 起こりうる未来(Possible)
- 望ましい未来(Preferable)
PPPP図(『スペキュラティヴ・デザイン』より)
「起こりそうな未来」とは、「よっほどのことがない限りは起こるだろう未来」である。
「起こってもおかしくない未来」は、これについて考える目的として、「組織がさまざまな未来に対して備え、その中で繁栄を続けられるよう、今とは違う経済や政治の未来を思い描くこと」が挙げられている。このことから、それが今とは違う世界であることが強く意識されている。
「起こりうる未来」の外側は「空想の領域」とのことなので、つまり「起こりうる未来」とは、「科学的に現出があり得なくはない未来(が、ほぼ起こりにくい未来)」くらいの意味に捉えるのがよさそうだ。
その上でスペキュラティブ・デザインは、デザインの力で「望ましい未来」を考え、実現させようとする。
私たちが興味を持っているのは、まさにこの部分だ。つまり、未来を予言しようとするのではなく、デザインを用いてさまざまな可能性を切り開くことに興味があるのだ。
『スペキュラティヴ・デザイン』より
私たちにとって、未来は目的地でも目指す場所でもなく、想像力に満ちた思考、つまり“思索”を助けてくれる道具なのだ。
『スペキュラティヴ・デザイン』より
私はこれらの考え方に完全に同意する。
や、未来はまさにその通り、自分の力で創っていくものだよね。バック・トゥ・ザ・フューチャーのドクも言ってた。
おいおいおいおい。
ダメじゃん。未来予測、ダサいじゃん。
で、そういえばこのブログも「未来予測」を謳ってるけど大丈夫? って話になってくるわけなんですよ。
振り返るとこのブログでは、これまで可能世界の可視化に力を入れてきた。例えばヒューマン・コンピュータ・インタラクションの先駆者ビル・バクストンの次の言葉を参考にしてたり。
Any technology that is going to have significant impact over the next 10 years is already at least 10 years old.
次の10年に重大な影響をもたらすテクノロジーのあらゆるものは、少なくとも10年前には存在している
もちろんそれらが直ちに未来を創るわけじゃないけど、そうした「誰かの」予測でも100とか1000とか重ねていくと、ぼんやりとでも大きな傾向が見えてくるんじゃないか。そんな期待があった。
これはまさに『ニュータイプの時代』に否定され、『スペキュラティヴ・デザイン』で興味がないと断じられた、ボトムアップのアプローチそのものである。
あれれ。これはどういうことだろう。
このブログはダサいのか……?
そんな……
まさか……。
だが、だがちょっと待ってほしい。
未来予測はおもしろい。おもしろいから始めたわけだし、そのおもしろさというもの改めて確認させてほしい。
『ニュータイプの時代』では、統計の整備された人口動態ですら全く予測が外れていることなどを指摘し、次のように述べている。
というのも、予測というのはもともと「予測し得ないようなこと」が起こると大変困るからこそやるわけですね。ここ数年の間続いている状況の延長線上に未来があるのであれば、誰も予測など必要としません。
しかし当たり前のことですが、「予測し得ないようなこと」は予測できません。だって予測できたら、それはすでに「予測し得ないようなこと」ではないわけですから。
(中略)
つまり、「予測は難しい」どころの話ではなく、そもそも「原理的に不可能だ」ということです。
『ニュータイプの時代』より
予測が当たらないというのは、特許の仕事をしていても強く実感させられる。
特許とは事業を守るための道具だ。具体的には、事業を構成する新規発明の技術的範囲について他者を排除することで、一定期間その技術的範囲を独占的し、もって事業の優位性を保とうとする。
この技術的範囲は、第一義的には生まれた発明を描写するが、より重要なのは、10年後、20年後の状況をも予測して記述すること、あるいはそもそも10年後、20年後の状況を想定して発明自体を生むことである。
発明とは、あくまで事業の構成要素であり、あの時点における表現型に過ぎない。重要なのは発明そのものではなく、ある時点においてそのような発明の形で説明される事業が、10年後、20年後にどのように発展するかという予測であり、させたいかという意思である。
ということで、10年後、20年後の事業の状態、競争環境、ひいては社会の在り方を予測し、構想し、そこから逆算して発明を考え出願をする、ということは一般的に行われる。
で、問題なのは、そうやってがんばって投資した出願も実際に10年、20年経って、審査や資産整理のタイミングでふり返ると、これが全然当たっていないことだ。予測は当たらず、構想もその通りには実現できず、その一方でおもしろいことには、ジャスト・アイディアのどうでもいいと思っていた出願が絶大な威力を発揮したりすることもある。
だからこそ、特許はある程度の件数を出して、確率的に当てに行くわけだけど、いずれにせよ日々答え合わせをしてみると、未来予測がそもそも不可能な行為であることは強く実感させられる。
未来は予測できない。
でもそれは、未来予測が無駄であり、つまらないことの理由になるのだろうか?
ここで、地政学に基づき21世紀末までの社会を予想した『100年予測』(2014)の冒頭について、少し長いが引用する。この文章でも、20年後を予測することの困難性を説明している。
想像してみて欲しい。今は1900年の夏。あなたは当時世界の首都だったロンドンに暮らしている。この頃、ヨーロッパが東半球を支配していた。ヨーロッパの首都の直接支配下に置かれないまでも、間接統治すら受けない場所など、地球上にはまずなかった。ヨーロッパは平和で、かつてない繁栄を享受していた。実際、ヨーロッパは貿易と投資を通じてこれほど深く依存し合うようになったため、戦を交えることはできなくなった、あるいはたとえ戦争を行ったとしても、世界の金融市場がその重圧に耐えきれなくなり、数週間のうちに終結する、といった説が大真面目に唱えられていた。未来は確定しているように思われた。平和で繁栄したヨーロッパが、世界を支配し続けるのだ。
今度は、1920年の夏に思いを馳せて欲しい。ヨーロッパは大きな苦しみを伴う戦争によって引き裂かれていた。大陸はずたずたにされた。オーストリア・ハンガリー、ロシア、ドイツ、そしてオスマンの帝国はことごとく消え去り、何年も続いた戦争で数百万人の命が失われた。(中略)アメリカや日本など、ヨーロッパ勢力圏の周縁部に位置する諸国が、いきなり大国として浮上した。だが一つだけ確かなことがあった。不利な講和条約を押し付けられたドイツが近いうちに再び浮上するはずがないということだ。
さて次は1940年の夏まで飛んでみよう。ドイツは再浮上したどころか、フランスを征服し、ヨーロッパを支配していた。(中略)ドイツに立ち向かう国はイギリスただ一国のみで、まともな人の目には、戦争はもう終わっているように思われた。ドイツの千年帝国があり得ないとしても、少なくとも今後100年のヨーロッパの命運は決まったようなものだった。ドイツがヨーロッパを支配し、その帝国を継承するのだ。
続いて、1960年の夏だ。ドイツは五年とたたずに敗れ、戦争で荒廃していた。ヨーロッパはアメリカとソ連により占領され、二分された。ヨーロッパの帝国は崩壊の途にあり、その継承者の座を巡ってアメリカとソ連が争っていた。アメリカはソ連を包囲し、その圧倒的な核軍備をもってすれば、数時間のうちにソ連を全滅させることもできた。アメリカは世界の超大国として躍り出た。(中略)また内心では誰もが狂信的な毛沢東の中国を、いま一つの危険と見なしていた。
次に、1980年の夏に身を置いてみよう。アメリカは七年間続いた戦争に敗れた。相手はソ連ではなく、共産主義国の北ベトナムだった。(中略)またアメリカはソ連を封じ込めるために、毛沢東の中国と手を組んでいた。アメリカ大統領と中国国家主席が、北京で友好会談を行ったのだ。急速に勢力を増していた強大なソ連を阻止できるのは、中国との同盟しかないように思われた。
それでは今が2000年の夏だったら、と想像してほしい。ソ連は完全に崩壊した。中国は共産主義とは名ばかりで、実質は資本主義化していた。北大西洋条約機構(NATO)は東欧諸国だけでなく、旧ソ連諸国にまで拡大していた。世界は豊かで平和だった。
『100年予測』より
どうだろう。
ワクワクしてはこないだろうか?
脚色はあるものの、20世紀という100年間において、大きなパラダイムシフトが何度も世界を覆ったことがよくわかる。20年という時間はこうも未来への期待を裏切り、予測の困難な社会を出現させた。それぞれの時代に戻って、その20年後の未来を告げても、きっと信じてはもらえないだろう。
ひとつ確実に当たる予測があれば、それは20年後が予想できないという予想だ。『ニュータイプの時代』でも述べていたけど、「予測し得ないようなこと」は予測できない。
で、その「予測し得ないような未来」を、どうにかして予測する。
それってメチャクチャおもしろくない? というのが、私がこのブログを続けている理由のひとつだ。
「事実は小説より奇なり」とはよく言ったもので、予想もつかない出来事はいまも毎日のように生起している。未来を創る発明も日々どこかで生まれている。もうね、Twitterとか見ててもね、毎日が想定外の連続で楽しくて仕方ないよね。
そして、それら事象が空間的にも時間的にも折り重なって、わずかに1年後ですら世界を見たことのない場所に塗り替えていく。そのどんでん返しが指数関数的畳み込まれるバタフライ・エフェクトの先にあるのが、10年後、20年後という未来なわけだ。
そんな未来を予測する。
「予測し得ないことは予測できないので予測しない」なんてね、極論すれば気概が足りない。予測し得ないからこそ、そこにおもしろさがあるんじゃないか。
未来予測は当たらない、という結論には同意する。では、当たらないものをどう当てるのか。
現在の各事象からどれだけ補助線を伸ばしたとしても、ロジカル・シンキングを積み重ねても、直ちに20年後を言い当てることはできない。それでも予測を当てようとするなら、いずれかの局面においては、何か、発想を飛躍させるサプライズが、非連続を織り込む投機的な判断が不可欠となる。
それはきっと、スリリングで冒険的な作業になるはずだ。
『スペキュラティヴ・デザイン』のPPPP図における「起こってもおかしくない未来」とは、そうした非連続な未来のことだ。「起こりそうな未来」との境界線はパラダイム・シフトを示し、この境界性を世界はどのような形で超えるのか、それが大きな論点となる。
未来を構想すること、未来を自ら切り開くことの重要性について、既に述べた通り私は完全に同意する。パラダイム・シフトを待つのではなく、自ら興す。それは「起こってもおかしくない未来」を当てることのひとつのアプローチとなるだろう。
あるいは一度非現実の物語世界を描いて、その中から可能世界の要素を紡ぐというのも、非連続の先を視るには必要なアプローチに違いない。
そうしたあらゆる冒険の全てもひっくるめて、未来の世界を言い当てる。それは必ず創造的で、おもしろいものになるはずだ。
それが未来予測だ。
と、想いを新たにしたところで、「このブログを通してやること、やらないこと」を整理してみる。未来予測に関して、このブログにおいては今後も方針を変えず、次の2つの方向性で行きたいと思う。
- 可能世界を可視化する
- 可能世界の組み合わせに非連続を加えて、予測不可能な未来を予測する
その一方でこのブログでは、次のことは原則として主題にしない。
- 自ら未来の構想をすること、特に、物語を語ること
- 現実に対して批評的に振る舞うこと
主題としないだけで含む可能性はあるけれど基本的には、このブログを通して、なんらかの世界を創ろうと働きかけることまでは目指さない。原則として「未来はこうなるだろう」の範囲にとどめ、「未来はこう在るべき(なのでそのように未来を創るための具体的な手段を取る)」までは目的にしない。
また、例えばスペキュラティブ・デザインはその要素として批評性を持つことを特徴とするが、このブログを通して現代社会を批評することも、目的にはしない。
これら2つは別のところでやっている・やろうとしているから、というのもあるけど、このブログにおいてはあくまでボトムアップのアプローチを守って、世の中で様々な人たちが想像する可能世界の蓄積と、それらの組み合わせから想像される非連続な未来の予測とに集中したい。
私としては「未来を構想する」ことをこそ重要視してはいるものの、「未来予測」もおもしろいと思っているので、あくまで後者を射程にするというわけだ。
で、そこでひとつの重大な問題に直面する。
文脈は全然ちがうけど、次のTweetは、ある著名人の書評が本の中身に触れていないことについてのつぶやき。
「本の内容に触れない書評なんてダメだろ!」みたいな、お前は書評のなんなんだよみたいな発言をよく見かけるけど、別に文章として面白ければなんでもいいでしょ、と思う派
— 樋口恭介:『構造素子』『すべて名もなき未来』発売中 (@rrr_kgknk) June 8, 2020
いや、まさにこれなんだよね。
結局大事なのはおもしろさで、私としておもしろいと考えている「未来予測」のおもしろさを、果たしてこのブログできちんと表現できているのか、と問われるとグッと言葉が詰まってしまう。
可能性界を可視化するとか、非連続を予想したいとか、色々それっぽいこと書いたけど、これまで積み重ねてきた記事みると、そんな風に書けてますっけ? とかセルフツッコミを禁じ得ない。
予測か構想か。
そのアプローチも大事だけれど、そもそも「おもしろい」と思ってやっている以上、そのおもしろさをきちんと伝えられるべきだと思うし(伝えたいからノートではなくブログとして書いてるわけだし)、そこはきちんと頑張りたい。
というわけで、未来の予測不可能性を愛しつつ、心を新たに続けていこうと思います。