いなたくんへ
インターネット以来続く情報爆発を3つの段階に分けると、現在は第2段階末期にあたる。第2段階とは、SNS等の友人ネットワーク上に発信される「周辺情報」が爆発的に増加した時代で、これが終わりに近づいている。
情報爆発をこのように整理するのは、酒井崇匡著『自分のデータは自分で使う』(2015)だ。
本書は情報の種類を「世の中の情報」「周辺情報」そして今後増加するが見込まれる「自分情報」に分けている。「自分情報」とは、ウェアラブル端末や遺伝子分析、ライフログなどにより明らかになる自分自身の情報だ。これはインターネット普及やSNSに匹敵するほどの情報爆発を起こせるのか、どのような未来がもたらされるのか、その予想について前回紹介した。
現在、人々は拡大しすぎた友人ネットワークに疲れてしまい、これを縮小しつつあるという。本書は生活者の意識や価値観の変化に着目し、「つながりからの離脱」や「ひとりの時間の増加」といった変化を紹介していた。
本書の予想する「自分情報」の増加には賛成するが、友人とのコミュニケーションは本当に減ってしまうのだろうか。社会からつながりは失われ、孤独に向かっていくのか。
私はそうではなく、テクノロジーがコミュニケーションの形を変えてるだけだと予想する。おとずれるのは、友だちは現実世界から消えるが、適正な数のつながりは維持される未来だ。これについて紹介したい。
Summary Note
「情報爆発の第2段階」末期のいま起きている変化(本書より)
- 若者はつながりから離脱している
- 全世代で「ひとりの時間」が増えている
つながりはなくならず、友人は現実世界から消えるだけ
- つながりはダンパー数に向けて適正化していく
- ひとり時間は増加するが、つながりは維持されている
- 仮想世界を通じた友人をいかに現実的にみせるか、といった技術が発達するかも
本書は未来を予想するにあたり、テクノロジーではなく、生活者の意識や価値観に着目する。そこでいま起きている変化は何かというと、本書は「つながりからの離脱」と「ひとり時間の増加」を挙げていた。
情報環境の変化で見逃せないのが「つながりからの離脱」だ。本書によれば、特に若者たちが、生活に定着したはずのSNSから離脱を始めているという。情報公開範囲の厳密な管理はその一例だ。利用するSNS自体も「繋がっている人が少ない」という理由でInstagramが好まれ、Twitterでは複数アカウント併用によるクローズな使い方がされるという。
SNSによりつながりを作るのが容易になった一方で、友だちの多さが必ずしも良いものではないと思われ始めている。本書は博報堂生活総合研究所の生活定点調査を参考に、友人の人数は増え続けているものの、「友人は多ければ多いほど良いと思う」という意識が一貫して低下している点を指摘している。
もうひとつの変化が「ひとりの時間」の増加だ。本書は全世代の傾向として、次のような変化を紹介していた。
- 「孤独」を寂しいものではなく楽しいものとして捉えなおした「ひとり系コンテンツ」の増加
- 「ひとりきりの時間を楽しめる人、普通は誰かと一緒に行くような場所にもひとりで行って楽しめる人」という意味の「ぼっち充」「ソロ充」という言葉の発生
- 「1人で過ごす時間」は1996年の289分から2011年には320分へと増加、睡眠時間を含めると1日の半分は一人で過ごしている(総務省社会生活基本調査)
- 生涯未婚率や、全世帯に占める一人暮らし世帯の比率が、男女問わず前年代で増加している(国立社会保障・人口問題研究所統計等)
こうした傾向について本書は、「オンラインで上でいつでもつながれる、会おうと思ったらいつでも会える、という安心感があるかから、彼らはひとりで行動することに何の抵抗も抱かない」と分析している。
本書はこれらの2つの変化について、次のようにまとめている。
SNSがもたらした”つながる”ことへの熱狂は、新しいツールへの熱に浮かされていただけで、実は人々が心から望んでいたことではなかったのかもしれません。
本書より
「ひとりの時間」を大切にする意識が高まり、「ひとりで生きる」という人生がメジャーになっていくことが、自分をメンテナンスする欲求を生み始めています。
本書より
そしてこの意識や価値観の変化を、「自分を見つめる第2の鏡として機能する新しいテクノロジー」である自分情報を使った、自己対話の時代に移ることの背景とみている。
self reflection (5) / Idhren
「友人は多いほど良いとは思わない」という意識の増加や、「若者がつながりから離脱している」という分析結果から思うのは、いま以上に人間関係が希釈され、孤独に向かっていく社会だ。
しかし、本書の挙げる変化が正しいとしても、それは社会からつながりが失われるという結論を導くだろうか。私はそうは思わない。私はこれからの未来が、「第2の鏡」で自分だけを見つめるナルシストの世界になるとは予想しない。
私は「友人は多いほど良いとは思わない」「若者がつながりから離脱している」ことの原因は、つながりがダンパー数を超過したことにあると考える。
ダンパー数とは、ロビン・ダンパーが提唱した「人間が安定した関係を維持できる個体数の認知的上限」で、平均約150人とされる。1つの集落の人数がこのくらいで、会社の組織も150人程度が理想的と言われる。
話が逸れるけど、主婦がワイドショーで芸能ニュースを追いかけるのは、芸能人のプライベートを知り疑似的に「つながりのある人」にすることで150人の枠を埋めようとしている、という説を見たことがある。
するとテレビ離れの原因として、SNSの普及により芸能人ばかり追わなくても150人を埋められるようになった、と言うこともできるのかも。
インターネットやSNSの普及は、つながれる人数をあっという間に150人から追い越した。それまでは150人に足りず「もっとつながりたい」というニーズがあったけど、150人を超過し認知が追いつかなくなると「友人は多ければ多いほど良い」とは思えなくなる。この中毒状態が「SNS疲れ」の正体だろう。
しかしだからと言って「友達がいらない」「つながりから完全に離脱したい」とはならないはずだ。私は「つながりからの離脱」とは、つながる人数のダンパー数に向けた適正化であって、一定のつながり(≒平均約150人)は維持されると考える。
英エコノミスト誌による未来予測『2050年の世界』(2012)では、30年以内にダンパー数が500人まで伸びると予想していた。現在のSNS疲れの様子を見ると500人は大きすぎる気がするけど、安定した関係を維持できる個体数の認知限界がインターネット以前の人間よりも大きくなるという予想には賛成だ。
「SNS疲れ」でつながりの数が減ったとしても、ダンパー数は維持されるか、インターネット以前に比べれば大きくなる。しかしこの予想では、「ひとりで過ごす時間」や「ひとり系コンテンツ」の増加は説明できない。これはどういうことか。
本書はひとりで過ごす若者について「オンラインで上でいつでもつながれる、会おうと思ったらいつでも会える、という安心感があるかから、彼らはひとりで行動することに何の抵抗も抱かない」と分析していた。
いつでもつながれる、いつでも会えると聞くと「後で会うのかな」と思ってしまう。けれども私はこれについて、むしろ「いつでもつながっている」「いつでも会っている」と現在進行形で捉える方が正しいと思う。
SNSを通してリアルタイムに友人の状況を確認し、自分の発信に対するフィードバックを受けられれば、常にコミュニケーションを取っているのと変わらない。すると、人間関係は現実世界から見えなくなっただけで、仮想的には続いていることになる。
ひとりの時間は増えていく。ただしつながりは保たれていて、友人は現実世界から消えて、仮想空間に遷移する。いや、仮想空間を通して常に傍らにいるのだから、むしろ現実世界で溶けていく、と捉えることもできるだろう。これが今後変わっていコミュニケーションの形だ。
するとコミュニケーションを支える課題も「いかに現実のつながりを維持するか」ではなく、「いかに仮想的なつながりを現実的にみせるか」になっていくだろう。そこで活躍する技術は、例えば拡張現実のような、現実と仮想世界を融合させる技術が考えられる。あるいは人の実在感を出すために、「自分情報」を用いた高度な情報発信やフィードバックも重要になるかもしれない。
「つながりからの離脱」や「ひとり時間の増加」により、自己対話の機会が増え、自分情報が氾濫して重要になる。私はこの本書の予想に賛成だ。
ただし、こうした傾向は人々を孤独に向かわせるわけではない。適正化されたつながりの中で、新しい形のコミュニケーションが築かれていく。「ひとり」と「つながり」は併存する。『自分のデータは自分で使う』を読んで、そんな未来を想像してみた。